閑話休題~あの日の事。
私が彼女と最初に会ったのは、中国に留学していたころでした。
当時私は広東語を勉強するために広州の某大学に留学してきたばかりで、「相互学習」する相手を探していました。
「相互学習」とは、宿舎内の留学生が同じ大学の中国人の学生とペアを組み、留学生が日本語を、中国人学生が中国語を教えるというプライベートの相互家庭教師みたいなものです。
私はその大学に広東語コースで入ったわけで、普通話ではなく広東語を教えてくれるネイティブの学生さんを探していましたが、なかなか見つかりません。そこで宿舎の私の部屋の隣に住んでいる日本人の友人に話してみたところ、彼が、広東語の「相互学習」のパートナーを紹介してくれる人がいることを教えてくれました。
聞くと彼の中国語の「相互学習」パートナーであるXさんが、友人(ややこしいw)を紹介してくれるとのこと。そこで私は彼が隣の部屋でXさんと相互学習しているときに、行ってごあいさつして頼んでみました。すると、Xさんは「いいよ。彼女に●●君(私)の授業の後に会うように言っておく」と言いました。
そして学校の広東語授業の後、はたして廊下に私の「相互学習」パートナーになってくれる女の子がいました。
そして私たちは定期的に会って「相互学習」をするようになりました。
・・・で、私たちは一か月後付き合うようになりました。ここまで読んで、お気づきになった方もいるかもしれませんが、その女の子が今の私の妻です。
その一方で、私たちは付き合い始めた後も、友人つながりでXさんとは、3人で定期的に会っておしゃべりをしたり、遊びに行ったりしていました。
7月になって彼女たちの卒業のときも、私は卒業式の2次会に招待されて参加し、彼女たちのパフォーマンスを見させてもらいました。
そしてその後ほどなく彼女たちは大学を卒業、私は留学を終えて日本に帰国しました。
◇◇
それから3年後、いろいろあり私たちは東京で結婚しました。でも結婚後もXさんとはいろいろ交流がありました。彼女が来日した際も、わざわざ私たちのアパートを訪問してくれて、いろいろおしゃべりをしたり、なやみをうちあけたりしたものです。
さらにその数年後に彼女が日本に留学した時、今度は妻と一緒に彼女のホストファミリー先の家に訪問していろいろおしゃべりをし、近況を打ち明け合いました。
しかしその後は、子育てや仕事が忙しかったこともあり、彼女とは徐々に疎遠になっていきました。
◇◇
それから10年以上たったある日、私は妻から、「彼女が深刻な病気にかかって横浜の病院に運ばれた。中国から急いで来日するお父さんのために連絡用のスマホをプレゼントしたいから、買って病室に届けてほしい」と言われました。
聞くと彼女は留学後も日本に留まり、日本で仕事をやっていたが、数年前に乳がんを患い、今回その乳がんが再発したとのこと。当時私たちは絶賛夫婦喧嘩中で、ほとんど言葉を交わさない状態でしたが、その言葉が少なかった妻から明かされた話に、私はことの重大性を理解しました。
早速スマホを買って、後日Xさんが入院する病院の病室に届けに行きました。がんが深刻と聞いて、呼吸器につながれて話もできない状態なのかなと覚悟していたのですが、Xさんは意外と元気で、ベッドから身を起こして、来日していたお父さんと談笑していました。
私がスマホをお父さんに渡した後、Xさんは「●●(私の名前)、今も翻訳の仕事続けているの?」と聞いてきました。私が「うん」と答えると、彼女は病室の窓から外の景色を眺めながら、「そっかぁ、私も早く仕事に復帰したいなぁ」とつぶやくような声で話しました。
彼女たちと別れて、病院のロビーに行くと、テレビでは芸能人の記者会見を中継していました。記者会見ではあの市川海老蔵さんが、妻の小林麻央さんの乳がんを公表していました。
◇◇
それから約1か月後、、ちょうど今ぐらいのときでした。会社で仕事を終え、帰ろうとした私はラインで妻から、Xさんが急死したことを知りました。病状が深刻であることはわかっていましたが、こんなに早く亡くなるとは、、私はとてもショックでした。こみあげてくるものを抑えながら、妻にラインを返しました。
我们一定要和睦下去。否则,怎么对得起她呢?(僕たち、絶対に仲良くしていかないといけない。じゃなきゃ、彼女に申し訳立たないよ)
たらればの言葉で語るべきではないかもしれない。でも留学の時にもし彼女と出会わなかったら、もし彼女が私に妻を紹介していなかったら、私は今の妻とは巡り会わなかったし、妻との結婚もなかったはずです。今の妻との生活も、今の子供たちとの生活も、彼女が現れなければ多分なかった。
彼女は身内でもないし、妻の友達という遠い関係かもしれません。でも私にとっては、間違いなく私の人生に影響を及ぼしたキューピットでした。だから、私はどうであろうともXさんには感謝したいし、たとえ夫婦喧嘩が絶えなくても、彼女がくれた妻とのご縁を大事にしなければ。そう考えた私は、妻にラインを送った後、涙が止まりませんでした。
◇◇
それから数か月後、私は彼女の同僚や再来日したお父さんとともに、彼女のお別れ会に参加しました。しめやかに行われた中、お父さんは私の手を取り、涙をこらえながら何度も「ありがとう」「ありがとう」と言ってくれたことがとても印象に残っています。
◇◇
あれからは妻との夫婦喧嘩は減ったような気がしますし、きずなも強まった気がします。何があろうとも、妻とはこれからもいい夫婦でいたい。そう強く思っている今日この頃でした。