うたのシーソー 4通目
トモヨさんへ
こんにちは。トモヨさんは口笛が吹けるのね。
私は口笛を吹いている振りしかできないので、口笛を吹いているわけではないという歌を詠んでみたことがあります。だいぶ、前のことです。
ここしばらく、自分のためではないことに振り回され、伝書鳩になったような気持ちでいます。実際の伝書鳩は人の都合であちらこちらへ飛び立つことを苦とは思わないのかもしれませんが、私は飛ぶことなどできませんから、自分の言葉ではない誰かの言葉を、また別の誰かに伝わりやすくなるよう翻訳し、ひたすらタイピングし続けることにちょっとくたびれています。
結果、トモヨさんたちとのお食事会に行くこともかなわず、とてもかなしかった。あの日は本当にごめんなさい。食べたかった、白子。しかしいまだに、30cmにも満たないキーボードの上ばかり、右往左往しています。トモヨさんは、もう、旅の準備をしている頃でしょうか?
今日はまるで春のような冬で、春であれば着ることのない服を身につけたまま、郵便局まで歩きました。必要だったわけではないのですが、美味しそうな食べ物が並んでいる84円の切手シートを買い、美味しいもののことばかり、考えています。
ページ繰る指と指とがもどかしい夜に浅利の砂抜きをする
食べ終えた浅利の殻を砕いたらゆびのさきから赤い球体
浅利の砂抜きは夜更けが似合います。トモヨさんの歌にはとても自然に料理中や食卓の風景が出てくるのだけれど、この二首には日常と非日常を行き来する浮遊感があると思いませんか。
私は浅利のために食塩と水道水で擬似的な海をつくる度、毎回、似たような気持ちが湧き上がります。トモヨさんの感じるものと同じものではないのかもしれけれど、あの妙な気持ちをトモヨさんもわかるのかもしれないと思ったのです。
これを誰かは「共感」と片付けるのかもしれませんが、私は「共感」ではないと思っています。私は、人の気持ちや状況を推し量る力を過信しないように生きてきました。それは、幼い頃にそういう力を利用していたような気がするからです。
あるとき、私の想像した通りの言動をお友達がしてくれました。その瞬間はうれしかったような気もするのですが、いまは怖かったことしか覚えていません。
短歌は「共感」の文学だと言われることがあります。確かに、世の中には「腑に落ちる歌」というのがあって、言い得て妙だと感心させられると「いい歌だ」と感じてしまいがちかもしれません。また、歌の鑑賞にも当たり外れのような物言いがされることもあり、作者の意図を汲み「共感」できれば「当たり」と考える向きは、少なからずあるのかもしれません。
でも、「共感」というものに正解はないと思うのですよ。私はあまり「正解」も得意ではありません。人と人は、正解できるほどわかり合えないし、同じ視線も思考も共有できません。自分でさえ、少し前の自分と、何かを共有することができなかったりするでしょう?
短歌のような文学のおもしろさって、そこにあるのではないかと私は思っています。「わかり合えない」ということを「わかり合う」ことが、おもしろいのじゃないかなと。
だって、浅利の殻を砕いてみたとしても、私の指先から「赤い球体」は出てこないの。そこに、めちゃめちゃ惹かれるわけです。
眠っている犬のお腹に手をあてる 優しさばかり褒められてきた
リラ色を頬にひろげる 憧れの人はたいてい早死にをした
裸木のどうしてひかる溜め息を空に向かって吐いたってなお
トモヨさんの歌に漂う寂しさのようなもの。私には掴みきれないし、わからないものです。そもそも、寂しさなんかではないような気もします。わからないから「寂しさのようなもの」と仮で定義してはみたものの、わからないままであってほしいと思っています。
トモヨさんの歌を毎月、読むでしょう? そうすると、必ず一首か二首、私のなかに「寂しさのようなもの」を呼び覚ます歌があります。瞬間的なものもあれば、読み返すたびに立ち止まらせるものもあります。ときどき、「寂しさのようなもの」だったのに、「優しさのようなもの」や「喜びのようなもの」に変異するものもあります。
そのことについて、もうちょっと書きたいのだけれど、そろそろ伝書鳩に戻らなくてはなりません。この頃、キーボードの上を自由に右往左往する時間がかぎられていて悲しいです。ぴゅんぴゅん。
だから、私が人間でいる時間の方が長くなったら、お食事にいきましょう。おそらく、トモヨさんが旅を終える頃には、呪いから解放されて、人間に戻っていると思います。
よい旅を。
マイ
※引用した短歌の作者:椛沢知世
note: 椛沢知世