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うたのシーソー 2通目
トモヨさんへ
お便りありがとうございました。
お便りを開くときから読み終えるまで、ずっと、とてもうれしかったの。だからお返事を書きますね。
今夜、こちらはとても風が強いです。部屋がただの箱のよう。風の真ん中にぽつんと置かれた箱みたいです。このあたりは、ときどきこんな風が吹きます。こちらで暮らしはじめるまで知りませんでした。
生まれてから、繰り返し繰り返し春夏秋冬を過ごしてきたせいでしょうか。去年は暑かったとか、今年は雨が多いとか、言うに事欠いて異常気象ではないかだなんて、つい口の端にかけてしまいます。死んでしまうまで、まるで同じお天気の日なんて、ないでしょうにね。
私の季節は、実は夏からはじまりました。生まれた瞬間から夏だったのです。トモヨさんと約束をしたあの銀座は、幾度目かの夏であり、初めての夏でもありました。トモヨさんのお洋服、可愛かった。
赤い手が次々ひらくたすけてとひらくひらくひらく線香花火
この歌は、今年ではない夏の終わりに初めて読みました。
その夏の終わりでは、切実さをかんじたのです。痛いくらいの切実さ。くるしくなるほどの切実さです。
けれど、今年の夏の終わりに再び読み返してみたところ、すこしだけ……ううん、思いのほか楽しそうだとかんじました。
「赤い手」が「次々」に「ひらくひらくひらく」様を思い浮かべていると、とても美しいのだもの。「たすけて」という声も、伸びやかに聞こえました。
すはだかで背伸びしながらピアノ弾く子どもが見える夜の家系図
この歌も、夏の終わりによく似合うと思っています。
同時にちょっと寒くてもよいなと思う。
多分、「夜の家系図」に星座のイメージを重ねてしまうからでしょう。
歌のなかで「すはだかで背伸び」をする「子ども」はピアノを弾いているのだけれど、私には幼児(おさなご)が夜空へ手を伸ばしている様が見えてきます。
思えば、人生の半分以上、夜に空を見上げれば星が見えることは当たり前でした。
どうも、私はずいぶんと夜空のきれいなところで育ったようなのです。そこは夏でも日が暮れると肌寒く、そこらじゅうの星を線で結ぶことができました。
東京の空は本当に星の見えない空なのだと、なまぬるい空気の歌舞伎町で気が付いたとき、ああ、寒くないからだわと漠然と思いました。
実際、気温が下がってくれば、六本木のビルの隙間であったり、中野で山手通りから路地へ折れたりすると、オリオン座くらいならば、はっきりと見えるのです。
だから、東京で暮らすようになってから、冬の間だけ星座を探すようになりました。
あのときの桜だろうか置き傘を二ヶ月ぶりにひらけばはらり
水着から砂がこぼれる昨年の砂がこぼれて手首をつたう
私はトモヨさんの、季節の歌がすきなの。
死んでしまうまで、まるで同じお天気の日などないことを、儚んでいるようで、許してもいるから。
明日は、私の部屋をただの箱へと変えたこの風が止み、晴れ渡るといわれています。晴れ渡らなくてもよいのだけれど、晴れ渡るのだそうです。その晴れはすでに、この吹き荒れる風のなかでも、ひときわ晴れ渡るものとして、私の頭のなかにあります。
トモヨさん。たぶん、偽物は本物であり、本物は偽物です。
誰かから見れば偽物であり、誰かから見れば本物。
私の頭のなかにある晴れも、いまのところ本物なのだと思う。
明日になったら、どうなるかわからないけれど。
マイ
※引用した短歌の作者:椛沢知世
Twitter: 椛沢知世