うたのシーソー 7通目
マイさんへ
おはようございます。いつも早起きな印象のあるマイさんと同じく、私も朝型になっているこの頃です。起きてから4時間経ってもまだ8時だなんて、不思議。お得。バタバタせずに済むのよいです。
朝の4時間は、夜の4時間よりも変化が大きいんですね。
六月のはじめの今日は曇りだから、日差しがかーっと明るむその変化はあまり感じられないけれど、ベランダから外に出ると、腕がしっとりしていくのが分かりました。
テレビをつけると、本日の湿度は75%以上とのこと。つまり、過ごしにくい気候のはずなんだけれど、しっとりした腕の皮膚の感触がまだのこっていて、なんだかよい気分です。
早朝の音や空気の中にいるようになって、どうやらマイさんの言う「私だけのざわめき」に慣れ過ぎていたことに気がつきました。はりついているのが、当たり前だったみたいです。
気がつくのは、モノにもよりますが、うれしいような、少し恥ずかしいような、困ったような、色々が入りまじった気分になりますね。
おおらかな冬のひかりがお茶漬けの海苔をきらきらきら朝帰り
最近読んだこの歌は、早起きではなく、朝帰りの歌です。
冬のひかりのあたるお茶漬けの海苔がズームアップで視界に映されたあとに「朝帰り」となることで、海苔だけがこの<私>の朝帰りを知っているような、あたたかくて、さみしくて、それだけでは言いあらわせていない感じがしています。
入りまじった気分ともちょっと違うのだけれど、この朝の空間の、ひかりとお茶漬けと海苔と<私>しかいないような空気感が、とても好きです。鼻に空気がすっと抜けて、お茶漬けの湯気も見えてきます。
この歌は、「塔」2020年5月号の百葉集という吉川宏志さんが選歌するページにも載っていて、気になって読んでいたので、引用しますね。
お茶漬けの海苔が光っているだけなのに、生きている喜びのようなものが伝わってくる。不思議なリズムに惹かれる。/吉川宏志(「塔」2020年5月号 百葉集)
「生きている喜びのようなもの」が、わかるようでわからなくって、気になっています。
「きらきらきら朝帰り」を定型通り区切って「きらきら/きら朝帰り」と読むと、畳みかけるというのか、1つの「きら」ごとに勢いが出てきて、生命感が増す感じがしてきます。ここでの「不思議なリズム」とはそういう感じなのかな。
わたしは「きらきらきら朝帰り」を演奏記号でいうスラーで読んでいて、かつ、「クレッシェンド、デクレッシェンド」をつけ読んでいました。句またがりをする「きらきらきら」で膨らんで、「朝帰り」で静まるような。だから、きらきらだけれど、さみしさ、もあるなあ、と思った。
これは後付けですが、「朝帰り」の最初と最後の音が、「a」と「i」で、「きらきら」の「i」「a」とひっくり返っているから、そういう感じがするのかもしれません。
そういえば「ひかり」と「朝帰り(あさがえり)」の音も少し似ていて、そういう音の感じも気に入っています。
どちらがいいとか、比べたいとか、共有したいとか、ではなくて、ただ、定型のある短歌だからだなあと思って、おもしろいと思っています。
こうやって書いてみると、わたしの「部分萌え」は「音」にあるのかもしれません。あまり「部分萌え」を自覚していなくて、これ、とは言い切れないのですが。
真夜中のサフランライス、ココナッツ、青唐辛子で憂さを晴らして
この歌も、すごく音が好きです。
「サフランライス」のサ行の空気が抜けて広がる感じ、「ランライ」のまばゆさ、「ココナッツ」はしっかり発音して促音ではずんで、「青唐辛子」の「がらし」と漢字表記で、ぴりっと引き締めて。
この3つの並びを読んでいるうちに、「憂さを晴らして」がどういう憂さ晴らしなのか分かるような気がしています。
そうやって読んでいて、これまで全く、何をつくっているか考えていなかったことに気がつきました。東南アジア系の料理でしょうか。深夜にがっつり食べそうですね。料理を想像しても、憂さを晴らして、に気持ちよさがあります。
実は、手紙はここで、いったん書きかけでした。
元気がないと書けないと、途中になっていました。できあがった冊子を渡してからも、だいぶ経ってしまいましたね。元気がないと書けないけれど、元気がないままに書けばいい、元気がないなら途中でもいい、と思って、続きを書いています。
書いたものを読み返すと、
おおらかな冬のひかりがお茶漬けの海苔をきらきらきら朝帰り
の、「生きている喜びのようなもの」もわかるなあ、と調子よく思っているところです。
さみしさがあるからって、喜びのようなものがないことには、ならないんでした。
こうやって二週間前のわたしと今はちょっと変わっていて、今の元気がない、も、いっときのものだから、このいっときに、身をひたしつつ、けれど動きながら過ごそうと思っています。
走れなくなった夏から鬼のままいつまでも夏至なんどでも夏至
もうすぐ夏至ですね。
鬼ごっこの鬼は、走って捕まえてタッチしないと鬼から変われない。
鬼のまま「いつまでも夏至なんどでも夏至」であることが、胸の高まりのように思えるときもあれば、強い日差しを直接眺めてしまったような痛みのように思えるときもあります。
鬼のままである私と、この短歌を読んでいるわたしの距離の違いなんだなあと思っています。
今は、私とわたしが近くて、読んでいて痛い。
痛いから、日差しを浴びにいって、その痛みを日の強さに代えています。夏至は日の長さで、短くてもちゃんと夜もあるんだけれど、この歌はすごく光を感じます。
あ、起きる時間が少し遅くなったものの、朝型は続いています。
トモヨ
※引用した短歌の作者:中森舞
note:椛沢知世
中森舞 第1歌集『Eclectic』 11月22日刊行予定・下記にて予約受付中
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