夢追い人が見た夢背負いし少年の軌跡『サイバーパンク エッジランナーズ』
好きなゲームやハマったゲームは山ほどあれど、ここ数年で最も夢中になったゲームといえば、私の場合『サイバーパンク2077』が真っ先に挙がります。
絵に描いたようなサイバーパンクの舞台にそれを掘り下げる緻密な設定、そして極上のローカライズから成る「SF小説を読んでいるようなゲーム体験」は本当に衝撃的で、その魅力的な世界観にぐいぐい引き込まれていきました。
初めてナイトシティに降り立ったあの日からもうすぐ1年経とうとしますが、いまだに「面倒くさい」より「楽しい」という気持ちが圧倒的に上回ります。良い部分も悪い部分も、全部ひっくるめて「好き」という気持ちに揺るぎありません。
そして2077年より少し前のナイトシティを描いたスピンオフもまた、”夢の街”に魅せられた私の目にまばゆく映りました。
アニメで描かれていたあの街は、間違いなくナイトシティだった
『サイバーパンク エッジランナーズ(以下『エッジランナーズ』)』は日本のアニメ制作会社TRIGGERが手掛けたNetflixオリジナルアニメーションシリーズ。2020年に発売されたオープンワールドRPG『サイバーパンク2077(以下『2077』)』のスピンオフ作品であり、ゲームと同じナイトシティを舞台に17歳の若き傭兵デイビッドの活躍が描かれています。
実を言うと、最初にアニメ化の話を知ったときは「ドラッグ・セックス・バイオレンス上等の洋ゲーの世界に銀髪色白クール系美少女(笑)とかいうアニメキャラを持ち込むんじゃねえ!」と、かなり否定的に捉えていました。
もちろん好きなゲームのスピンオフ制作決定というニュース自体は素直に嬉しかったです。ゲームをプレイするたびに「傭兵以外の立場でもロールプレイをしてみたい」と思う程度にはナイトシティという箱庭に可能性を感じ、V以外の立場のキャラクターでもこの街を舞台にした物語の主役を張れるはずだと心から信じていましたから。
しかしいざ発表されるとなると、どうしようもないコレジャナイ感に襲われたというか……原作に思い入れがありすぎるあまり、好きな作品が映像化するたびに「原作と違う」と勝手に落胆したり腹を立てたりする厄介なオタクと同じ思考に陥ったのです。
結論から言ってしまうと、そんな漠然としたネガティブな感情を抱いていた自分が恥ずかしくなるぐらい良い作品でした。
次々と公開されるトレイラー内で描かれていたナイトシティの街並みやメイルストロームをはじめとしたギャングの風貌は、ゲームで見たものとほとんど同じ。その再現度の高さが私という厄介なオタクを押し黙らせ、不安を拭い去り、Netflix加入の後押しになったのは事実です。
そして本編を再生し、そこで描かれていたナイトシティの描写に息をのみました。
BGMも効果音もマップデザインもUIデザインも何から何まで馴染みのあるものばかり。視聴中、見覚え / 聞き覚えのあるものが登場するたびに「ゲームと同じだ!」と何度声を上げたことでしょう。
第一話からしても、まずサイバーサイコの鎮圧に奮闘するNCPDとマックスタックの姿にテンションが上がり、次にマルティネス家がVの部屋とまったく同じ間取りであることにめちゃくちゃ興奮し、メトロの車窓から見えるトラウマチームの出動にときめき、「Don't walk…Don't walk…」と信号待ちの音声が流れると感極まって走り出したくなり……まだデイビッドの物語が本格的に動き出していないにも関わらず、たったこれだけで「いいアニメだった」と大満足です。
逆にゲームのプレイ中「あっ、これアニメと同じだ!」と興奮し、その再現度の高さに感心することが多々ありました。
SNSではすでに「ゲーム内で聖地巡礼できるアニメ」として話題になっていましたが、実際に自分のVでアニメに登場した場所を訪れると、デイビッドとVの世界が地続きであるという実感がわいて感動すら覚えます。
驚いたのはビジュアルだけではありません。歴史・経済・文化といった膨大な設定から成る世界観もまた緻密かつ自然に描かれていました。
ゲームプレイヤーであればご存知の通り、舞台となるナイトシティは上位1%の権力者が残る99%の民衆から「頭を使うな、金を使え」と言わんばかりにことごとく搾取する超資本主義社会です。
くしゃみをしただけで救急隊が駆けつけてくるような大金持ちがいる一方で、ギャングの抗争に巻き込まれて人知れずに死んでいくホームレスもいる――その様子はVの傭兵生活からも垣間見ることができました。
能力があっても家柄や財力が無ければ差別される。街中にギャングがうろつき、銃撃戦に巻き込まれることもしばしば。保険加入者であればトラウマチームが迅速に救助、そうでなければそのまま野垂れ死ぬか。人の命より金の方が重い世界。
そんな「ありふれた日常風景」が第三者(V)でなく当事者(デイビッド)の視点から描かれると、改めてこのディストピア社会の恐ろしさを思い知らされます。
アニメではやたらと貧困家庭という面が強調されているマルティネス家ですが、それは比較対象がデイビッドの同級生(金に不自由しない上流階級の人間)だからこそ。Vのキロシ越しに社会の頂点からどん底まで見てきたゲームプレイヤーからすると、ナイトシティでは比較的まともな暮らしをしているように見えます。むしろ教養があって親子関係が良好な分、節制エンドに登場する少年の家庭よりずっと恵まれている印象です。
とはいえデイビッドの日常を一変させた出来事は悲劇以外の何物でもありませんし、こういった悲劇が珍しくもなんともない世界観であることはもちろん知っています。
けれどそれをアニメという形で改めて突きつけられると、150時間以上慣れ親しんだ街が恐ろしいディストピアであることを思い出し、プレイ中に感じた「絶対に住みたくない」という気持ちが一層強まります。
こうした悲劇を経験してなおどん底から這い上がることのできたVとデイビッドは本当に幸運なケースだと思いますし、あのクソ迷惑なロッカーボーイも戦争で多くの悲劇を目の当たりにした結果ああなったのだと思うと少しだけ同情の念がこみ上げてきます。
私が『エッジランナーズ』をこうも褒めちぎる理由は、単にゲーム再現度が高いだけではありません。
既視感のある「サイバーパンク“風”のネオン街」でもテーマパーク感が抜けない「新合衆国わくわくサイバーパンクランド」でもなく、ゲームと同じ「207X年のナイトシティ」あるいは「ジャパニメーション化されたナイトシティ」の雰囲気を全編感じ取ることができるからこそ、最高だと連呼するのです。
もちろんCDPR完全監修というのもありますが、アニメスタッフの情熱とゲームに対するリスペクトがこれでもかというほど詰め込まれた結果、ナイトシティがナイトシティとして描かれている――それだけでゲーム原作の映像化作品としては満点であり、ゲームファンとしては感無量です。
2077年における狂人と207X年における病人
このようにゲームプレイヤーから見た『エッジランナーズ』は非常にハイクオリティなゲーム原作アニメだったわけですが、驚いたのはナイトシティの解像度の高さだけではありません。
ナイトシティをナイトシティとして描いたうえで、Vとは違う視点からVの物語では省略・簡略化されたものを描いたからこそ、ファンをも唸らせるスピンオフ作品に仕上がったのではないかと思うのです。
上で挙げた「ディストピア社会で生きる一般市民の日常風景」もそうですが、特に秀逸だったのがサイバネティクス技術が発達したこの世界特有のテクノロジーことサイバーウェアとサイバーサイコシスに関する描写です。
原作(TPRG『サイバーパンク2.0.2.0』)におけるサイバーウェアとサイバーサイコシスについて下記の通り、戦闘を有利に進められるメリットと制御不能の殺人マシンと化すリスクを併せ持ったシステムとなっています。
生身の身体をサイバーウェアと置き換えることで様々な能力が得られる
EMP値=共感能力が高いほどサイボーグ化への耐性が高い
サイバーウェアを埋め込むと人間性コストの判定に応じてEMP値が減少
EMP値がゼロになるとサイバーサイコシス(義体化精神病)を発症
サイバーサイコ化するとプレイヤーの意思で操作できなくなりGMの制御下に置かれる
もちろんこれらの設定は『2077』の世界観にも引き継がれています。データベース・チャットログ・TV番組・モブ同士の会話などでサイバーウェアの危険性や発症に至るまでの過程が言及されているだけでなく、実際にサイバーサイコと対峙するクエストもいくつか存在します。
ところが『2077』のゲームシステムにおいては、EMP値や人間性コストといったステータスが存在しないので、いくらサイバーウェアをインストールしようとVがサイバーサイコシスを患うことは絶対ありません。
これについては「VのEMP値がアダム・スマッシャー並」「ゲームで購入できるのはVやヴィクが安全性を考慮し厳選したクロームのみ」「ジョニーの存在を認知できている時点でとっくに人間性がマイナス」「仮に発狂しかけてもジョニーが茶化してくるから正気を失わないでいられる」などさまざまな解釈が可能です。
しかし身も蓋もないことを言ってしまうと、物語としてのリアリティを追求するよりゲームとしての快適性を重視したためではないかと私は考えます。
もちろん『Wannabe Edgerunner - A simple Cyberpsychosis mod』のようなMODを導入すれば、状態異常としてのサイバーサイコシスを疑似体験することもできます。しかしバニラにおける設定では、依然として「リパーのところでしか脱着できないちょっと面倒な装備(サイバーウェア)」と「ちょっと強くて気持ち悪い挙動の強敵(サイバーサイコ)」のまま。Vの余命設定と同じで形骸化しています。
それに対しアニメでは、その「ちょっと面倒な装備」と「ちょっと変な敵」について真摯に向き合っていました。
「この世界特有の病」と「それに苦しむ患者」として、サイボーグ化で手に入れた強大な力と引き換えに感受性が欠如していく恐怖を真正面から描ききっていたのです。
中でも印象的だったのが、デイビッドとメインの目に映った幻覚。病状が悪化するにつれて現在と過去が混ざり合っていく光景は物悲しくもどこか美しく、彼らが「狂人」でないことを物語っています。
それを見て真っ先に思い浮かんだのは、スペイン発のバンドデシネ『皺』で描かれた老人たちの見る世界。人情家のメインと心優しいデイビッドから徐々に“何か”が抜け落ちていく様子は、まるでアルツハイマーが悪化するにつれ人間不信になっていく主人公エミリオのよう。見ていて本当に胸が痛かったです。
そこでようやく「サイバーサイコシスは誰もが発症する可能性がある病である(もしかすると我々の世界における認知症や現代病ポジションかもしれない)」という設定を飲み込めたような気がします。
この設定をアニメで痛々しいほど感じられたのはおそらく、BDの登場人物→仲間を殺した男→仲間→自分自身とサイバーサイコが徐々に身近な存在になっていったからでしょう。
逆にゲームでその設定をまったく肌で感じられなかったのは、登場するサイバーサイコ全員が赤の他人だったからかもしれません。
依頼『サイコキラー』に登場するサイバーサイコは悲劇的なエピソードを抱えた人物も多かったものの、Vにとっては単なる敵A――それもなるべく殺さず無力化しないと報酬が減る厄介な敵でしかありません。
もしもヨシュアのクエストのように「結果」に至るまでの「過程」に寄り添うことのできるサイドジョブがあれば、彼らの苦しみをもっと理解できたのかもしれません。
あまり「原作を超えた」なんて表現を使いたくありませんが、このサイバーサイコシスに関する描写だけは別です。TRPGとビデオゲームの設定を踏まえたうえで「サイバーパンク世界における闘病もの」としてドラマチックに展開した点は、アニメ最大の功績と言えるでしょう。
若きエッジランナーの物語に描かれていた“あの半年間”
私がここまで『エッジランナーズ』をべた褒めしているのは、ゲームという知識の下地――すなわち「ゲーム原作アニメ」という色眼鏡があってこそ。
その色眼鏡を外して純粋に「デイビッド・マルティネスの物語」としてこのアニメを評価しようとなると正直、そこまでの熱量を持って語れる自信がありません。
文句があるというわけではありません。ボーイミーツガールとしてもサクセスストーリーとしても全10話で綺麗にまとまっていたと思いますし、結末もあの「月エンド」以外考えられません。
なのでこれは言いがかりに近いのですが、何と言うか……すべて作者の都合通りに物語が進んでいるような感じがあるというか……よく言えば「王道」、悪く言えば「意外性が無い」という印象が否めないのです。
デイビッドは傭兵として栄誉の死を遂げる――これは悪意のあるネタバレではなく、アニメが配信される半年以上前からゲーム内で示唆されている結末です。ゆえに最終話で死ぬのはもちろん、トレイラーで全面的にボーイミーツガール要素が押し出されていたことから「惚れた女のためにデカいことやらかすんだろうなぁ」という展開も容易く想像できました。
この予想を裏切ってほしかったわけではない(むしろ生死不明で濁したら「何でモーガン・ブラックハンドのカクテルが無いかわかってんのか?!」とキレていた)のですが、全10話ということもあって思ったより順調に進んでいったなぁ……と。できることならもう1~2話、ルーシーやチームメイトたちと距離を縮めていく様子をじっくり見たかったとは思います。
ですが、デイビッドが高みを目指し派手にくたばるまでの過程にまったくワクワクしなかったといったら嘘になります。
というのも、本作はキャラがいい。外見も性格も、敵も味方も、男も女も、大物も小物も、善人もクソ野郎も、みんな愛おしく見えます。
個人的には本作の魅力の2/3が「ジャパニメーション化されたナイトシティのクオリティ」とすると、残る1/3は「個性的なアニメオリジナルキャラクター」で成り立っていると信じてやみません。
その中でも特に好きなのは、やはりデイビッドが所属するメインたちの傭兵チーム。体格も性格もロールもバラバラ、だけど全員が腐ったディストピア社会には似つかわしくないような「いいやつ」ばかりです。
メインフィクサーのファラデーからは「馴れ合いのせいで精度が欠けることもある」なんて評されているものの、得手を活かし不得手をカバーし合うチームプレイと打ち上げでの和気あいあいとした雰囲気こそ、このチーム最大の長所です。
彼らを見ると「このチームに拾われて本当によかったねデイビッド……」と新たな居場所を手に入れたデイビッドの幸運を喜ぶと同時に、ジャッキーやT-バグと駆け抜けたAct.1の思い出が蘇って涙が出そうになります。
パッチ1.6のローンチトレイラーでジャッキーの声が流れただけで目頭が熱くなった私がこの世界で一番見たかった光景……それがアニメで描かれた傭兵チームでの日々です。
たとえチームアップしても、その関係がずっと続くわけじゃない。危険と隣り合わせの仕事なので途中で誰かが命を落とすこともあれば、考え方の違いから別々の道を歩むことだってある。
そんなことわかってます。ゲームでもアラサカタワー襲撃後のローグがそうですし、バグだって紺碧での仕事を終えた後は隠居する気満々でした。
それでもその光景を――仲間との日々をもっと見ていたかった。
プロローグ終了後にダイジェストムービーという形で飛ばされた“あの半年間”を体験したかった。シルヴァーハンドのコンストラクトと喧嘩するより、ジャッキーと一緒にいろんな仕事をしたかった。アラサカのお家騒動に巻き込まれるより、純粋に傭兵としてメジャーリーグを駆け抜けたかった。
全編チームものとして描かれていた『エッジランナーズ』には、そういった私の願望がぎゅっと詰め込まれていました。
メインたちのチームメイトが全員揃っていた期間はそう長くありませんでしたが、それでも彼らの仕事風景と笑い合う姿は本当に眩しくて……「もし“あの半年間”がカットされていなかったら、Vもジャッキーやバグたちとああしていたんだろうか」と思うと嗚咽が漏れそうになります。
もうゲームで『I Really Want to Stay at Your House』が流れてきただけでも(パッチ1.6のトレイラーとジャッキーを思い出して)感極まって泣きそうになって、まともにプレイできません。
なんだかんだ言いつつも私がデイビッドの物語から目が離せなかったのは、きっと「最低で最高の世界観」と「最高で最高すぎる仲間たち」が彼の人生を鮮やかに彩り、ドラマチックに演出したからのように思います。
でなければ最終話視聴後、しばらく手の震えが止まらなかったことに説明がつきません。
2077年の“夢の街”で207X年に想いを馳せて
そしてサイバーパンクの物語はデイビッドからVへ――パッチ1.6で追加されたサイドジョブ『OVER THE EDGE / エッジの向こう側』へ繋がります。
アニメに登場したあのジャケットが手に入るだけでなく、ファルコたちの安否も知ることができて非常に後味の良い後日談でした。ゴミ箱に捨ててあったBDを何のためらいもなく再生するという雑な導入にはエル・キャピタン同様ドン引きしたけど。
このように『2077』とのクロスオーバーを含め『エッジランナーズ』を十二分に楽しんだ私だったのですが、アニメ視聴後にふたつほど小さな疑問が浮かびました。
一つはアフターライフに並ぶデイビッド・マルティネス(カクテル)のレシピについて。
ゲーム内のフレーバーテキストで「ウォッカのロックにニコーラを少々」とあるので、実際にウォッカとコーラで再現したプレイヤーもいたことでしょう。無論、私もそのうちの一人です。
ただ私の場合、これ作って飲んだのはアニメ配信前のこと。そのため「17歳の男の子なのに何でウォッカのロック?」という疑問に対し好き勝手考え、その理由はアニメで明かされるだろうと思っていました。
ところが全話視聴後に改めて考えようも、腑に落ちるどころか「何で炭酸を入れたんだ?」という新たな疑問が浮かんでなかなか納得いきません。
強引に解釈するなら「サイバースケルトンを操る殺人マシンに残されたわずかな人間性(炭酸が苦手という個性)」をウォッカとコーラで再現したようにも思うのですが……こんな浅い考察なんかでは計り知れない意味が隠されているような気もします。
これをアフターライフのメニューに加えたのは誰なのか。そしていったい何を思って、ウォッカのロックにニコーラを少々加えたドリンクに「デイビッド・マルティネス」と命名したのか。その答えを知るとしたら、ルーシーかファルコかCVツダケンのリパーぐらいでしょう。
そしてもう一つの疑問は、本作の評判について。
というのも、本作はものすごく評判が良い。国内外を問わず、SNSやレビューサイトでも好評のコメントばかりを目にします。
そのことについて異論はありません。たしかにその評判に違わない、非常に熱いアニメだったと思います。
ですが私が本作を絶賛する最大の理由が「ジャパニメーション化されたナイトシティのクオリティ」にあるからか、何故『2077』をプレイしたことのない視聴者からも高い評価を得ているのかが不思議でたまりません。
エロ描写も普通にあってグロ描写も割とがっつり。専門用語の多さから「これって未プレイの人、ついていけるんだろうか?」と感じた場面もしばしばありました。
ましてやアダム・スマッシャーなんかは「物語を強引に終わらせるだけのデウス・エクス・マキナ野郎」と感じる視聴者がいてもまったく不思議に思いません。
ゲームでも割とパッと出のラスボスという印象が否めませんし、ゲームクリア済みの視聴者でも「あの特に因縁もなければ別に強くもなかった雇われボディガードのアダム君が、アニメでちゃんとナイトシティ最強のソロとして立派に活躍するなんて!」と感激することはそうそうないでしょう。
こうやって書き連ねていると知識マウントを取りたがっているだけの嫌な奴みたく思われそうですが……ただデイビッドの物語だけ追って「ああ、面白かった」の一言だけで終わってしまうのはすごくもったいないことだと思うのです。
もしも『エッジランナーズ』の世界や物語に心惹かれた視聴者がいるなら、そのまま『2077』の世界にも足を踏み入れてほしいと願ってやみません。
さて、Vとデイビッドの物語はひとまず完結したものの、ナイトシティはまだまだ多くの可能性を秘めています。
高みを目指し派手にくたばった若きエッジランナーの物語の次は、ミリテク側についたVのIFストーリー(『PHANTOM LIBERTY / 仮初めの自由』)が控えていて、そしてその次はまた別のドラマ(コードネーム『Orion』)……これらの夢が現実になる日が待ち遠しいです。
ひとまず今は、夢背負いし少年の軌跡を辿りながら、銀腕の亡霊と共に2人目の夢追い人の物語を見届けるとしましょう――この“夢の街”で。