認識の違い
人は見たいものを見て、聞きたいことを聞く
例えば、足元に死にかけてる子どもがいても、目の前のご馳走しか見えてなければ、子どもにご馳走を分けてあげようという発想は無いと思う。
子供を認識して、ご馳走を認識して、そしてようやくお互いにとって良いことが何かを考えて行動できるものなのだと思う。
うちの親は目の前のことしか見えていない人たちだった。
低学年の頃、泣いてる私に母は「どうしたの?言ってくれないとわからない」と言った。
母の後ろで兄が私を睨みつけている状況でだ。
学級会で言うならいじめられっ子の前で「この子をいじめた人は挙手してください」という馬鹿な教師と同じ事をしていた。
言えるか
言ったら母がいなくなった瞬間ボコボコにされるんだ
何も言わない私を母は諦め、その場からいなくなった
兄は私を鼻で笑っていなくなった
低学年だって馬鹿じゃない、その後の報復がどういうものか分かっている。
だから言えなかったのだ。
もしも、その時母が別室で話を聞いてくれていたら
もしも、兄のない時に「何をされたの?」と聞いてくれていたら
私が「殴られたくない」と言った時に父が動いてくれていたら
事態は変わっていたかもしれないし、今ある結果は変化していたかもしれない
でも…もう何もかもが遅い。
全ては「かもしれない」だけだ。
私に残ったのはフラッシュバックと不眠症、常に人からの評価を恐れる低い自己肯定感だけだ。
ここ何度か怒りが爆発して母に自分の気持ちを伝えることがあった。
家が苦痛だったこと
学校が辛かったこと
生きていて楽しいと思ったことがないこと。
ちゃんと伝えた。
しかし、母には伝わらなかった。
「お母さんの中のあなたはいつも、ニコニコして楽しそうでよく笑う子だった。本当につまらなかったの?生きるのが辛かったの?」と聞いてきた。
殴られて、暴言を吐かれる家が楽しい場所なのか?
友人には会えるが、大人をことごとく信用できない子どもが、学校で教師からどういう目で見られているのか知らないのだろう。
私がニコニコして、楽しそうにしてるように見えたのは私がそうやって過ごすことで全て丸く収まってきたからだ。
メソメソ泣いてても誰も助けてくれない。
いっそのこと、どんな時でも笑っていた方が辛く無かったからだ。
頭の中では「いつか殺してやる」と日課になってる兄のラーメンの具材を切りながら考えていた。
人は見たいものしか見ない
聞きたいものしか聞かない
本当にそうだ
現に母の中では殴られていることも暴言を吐かれていることも知っているのに「ニコニコして楽しそうに過ごす私」しか見えていなかったのだから。
母の中で私の精神構造どうなっていたのか?
殴られても、暴言吐かれても
「一生懸命楽しく生きてます!」
とでも見えていたのだろうか。
なーい!ないないない!
人並みに傷つくし、殴られるのが嫌で部屋に逃げていく程の暴力を受けていたのに、何故私が「楽しそうに生活している」と思えたのだろうか。
全くもって謎である。
そして、さらに鬱陶しいことに、最近やたらと家に来る。
私が家を出てからは頼まないと来なかった人が
放っておいてくれ、といえは放っておいてくれない
助けてくれ、と言えば助けてくれない
天邪鬼なの?嫌がらせなの?
私は一体、前世でどんな悪行を働いてこんな仕打ちを現世で受けているんだ。
「食べなさい」「寝なさい」って言いますけど
食べれたら食べてるし、寝れたら寝てる
普通に寝れるなら薬なんて飲まない。
目の前で起きてる私に寄り添うことよりも「母としてどうにかしなければ」という気持ちが重すぎて
こちらが潰れてしまいそうになる。
労りや労いの言葉は時として自分よがりになりやすい。
そして相手を知らずに傷つけていることもある。
部屋で寝ていれば「帰れって言われてる気がするから帰るね」と言われ
身体が怠くても部屋に出ていけば「全身で帰れって言ってるから帰るね」と言われる
どうしたらええねん!?
「思ってないよ」
と言えば「いいや、そういう顔をしてる」と言われる始末。
もう許してくれ…
私の体調と心情を慮るより、己の目に見えた事実だけで、動く。
いたけりゃいればいいし、帰りたければ帰ればいい!?
私がどうして欲しいかなんて言っても通じないのだから、聞かなきゃいいじゃない!?
親切を押しつけてくるやつは大抵目の前のことしか見えてない。
頼むから話を聞いてくれ!
認識のすれ違いにも程がある!
もう、今は頭も痛いし体もだるい、典型的な鬱状態なのだから…放っておいてくれ…お願いだから…。