自分に素直に、そして見逃さない
今宵は大晦日。
2020年にもうそこまで足が伸びているこの時間に、出しかけた右足を一度止めて、後ろ髪を引かれるように2019年のことを考えてみる。
さて、この一年で何が決定的に変わったかを考えると、
自分があまりにも弱いということを認識できるようになった、ということだと思う。
どうしたものか、本当に余る、余るほどに、あまりにも、自分という人間は弱かった。今まで全然気づかなかった。いや、気づいていたのかもしれないけれど忘れていたり、見ないフリをしていた。
弱い自分は、掘り下げれば掘り下げるほどにありありとその側面を表出させた。弱さは、やぶれ崩れた黄身のように止まることを知らずにどんどん溢れ出して、自分の認識する自己像は黄身がその球形を失うように崩れ去った。パンで崩れた黄身を掬えれば美味しくいただけるけど、心に都合のいいパンはない。
キリスト教においては、人間には七つの大罪という人間を罪に導きうる欲望や感情があるとされている。(だから正式には"七つの罪源"というらしい。)【傲慢、強欲、嫉妬、憤怒、色欲、貧食、怠惰】このnanacoがそうなんだけれど、(しまった、セブンイレブンのキリンがすごく悪いやつになってしまった。)
閑話休題。さて、この七つを改めて意識すると、なんと自分の醜いことかと正直、悲嘆した。
自分はこんなレベルの人間じゃない、もっとできると思っているような傲慢や良いことがあるとそれに満足せずにそれ以上を欲しがる強欲、人が良い思いをするのをみると自然ととぐろを巻き出す黒い渦の嫉妬、期待が裏切られた時に湧き上がる憤怒、忽然と湧いてくる性的な欲望の色欲、アイスクリームのおいしさに溺れる貧食、その日のうちにやればいいのにやらない怠惰。
上にあげたようなことは氷山の一角にすぎないけれど、あまりにも理想的とされる人間像からは逸脱する諸感情を持ち合わせすぎている自分がいた。
意識し始めた当初はこんなの自分じゃない、魔が差しただけ、今はたまたま運が…体調が…と考えていたけれど、このどうしようもない自分こそが、誠に残念ながら、本当に不本意で仕方がないけれど、自分なのでありました。と、一定期間を超えると否応無く理解せざるを得なかった。
このことは臨時ニュース的に、「速報が入ってきました!あの良いやつっぽいと思われていた海太郎はダメ人間です!」と瞬時に理解したわけじゃなくて紅茶が透明なお湯を茶葉色に染め上げるような速度でじわじわとイヤなぬくさを伴って理解していった。
では何で理解したのかというと、それは一重にnoteを書いたことだと思う。今年の3月の下旬から10月くらいまで毎日noteの記事を書いていたのだけれど、毎日書いていると必然的に今日は何があって、その時々何を思ったかなってことを考えて、言葉にする作業をやらざるを得ない。
そうすると必然的に良い自分も悪い自分もたくさん発見することになる。日々をただ過ぎてゆくものとしていた今までは嫌な自分=記憶したくない自分なので、必然的に自己像は自分が信じている自分で構成されていた。でも棚卸し的作業であるnoteを書くことを毎日続けると思ったよりもずいぶん自分を見ていなかったということに気づくことができた。そして、自分はまぁ大したことない普通な人、もしくはそれ以下にすぎなかった。
そして、最近気づいたことがもう一つ。書くことは剥き出しの自分を探す行為でもあった。剥き出しの自分をさらけだすことは恥ずかしい。それがダサかったら傷つくからだ。
何かを好きと発言するということにも近い。好きは自分の価値のレベルをさらけ出すことになるので、ずっと恥ずかしかった。「ねぇ、あれって面白い?」と聞かれたら、「まぁまぁだね」と言っておけば自分はもう少し高尚な感じを醸し出せるので守られる。(守るような高尚な自分なんて本当はいないのにね。)
「タピオカ?甘いだけだろう?そんなものにキャッキャする自分じゃないんだぜ」「飲んだこと?そりゃあないよ。飲むまでもないさ、しょうもないよあんなもの。」みたいな感じだ。(どんな感じ?でもタピオカ美味しいよね。)
話を戻す。
noteを書くことがどうして剥き出しの自分を見つけることを探すことになるのか。noteを書く時、それはもう一人の自分を用意することができるからだ。noteを書くことで自分を見つめる自分を作ることができる。画面でクリボーを潰すマリオとコントローラーを握っている自分みたいにメタ的な自分を作り出すことができる。
マリオの自分はクリボーを潰さなきゃ死んでしまうのだから、もう踏むしかない。そこでいろいろ考えて悩んでるうちにこっちがクリボーに潰されてしまう。だからその時をとにかく必死になって、考えることは画面の向こうの自分に任せればいいのだ。
あの状況だったら、クリボー踏まなくても飛び越えればよかったなとか、近くにファイヤーフラワーが埋まってるブロックがあそこにあったんだからそれをとっておくべきだったかな、とかは後から考えればいい。
そして、考えても別に後悔する必要はない。そのときの自分に見えていた景色はそれだったのだから踏むことしかできなかったのだ。
これがぼくにはずっとできなくて過去の自分を許すことができなかった。
なんであんときクリボーを踏まない道を探せなかったんだ、自分の馬鹿!ってずっと自分を責めていた。それは自分が描く自分像が等身大を超えていたからだった。さっき書いたように自分は結構大したことのない残念なやつだったので、もうあんときはその選択こそが自分のベストで仕方なかったと思えるようになった。
でも未来の自分(画面の向こうの自分)が許してくれるからクリボーに潰されていい、というわけじゃない。その刹那刹那で自分の生を生き抜くことを怠ると、最早なんでマリオをプレイしているのかわからないし、意味がなくなってしまう。そうであるなら、マリオの自分を何も考えずに生きて、のたれ死ねばいい。
剥き出しの自分を探すことを画面の向こうでもう1人が必死にやろうとしているのに、マリオの自分が刹那を必死に生き抜かないと探すも何もできない。
ぼくはずっと剥き出しの自分(本当の自分と言ってもいいのかもしれない)を探し求めている。そして自分にとってなにが本当の喜びになるかを見極めたい。
今の自分はこんなもんじゃない、もっといい水があればもっときれいに泳げるはず。ついついイイ格好をして仮面をかぶる自分をどうか捨てたい。そういうふうに考えるのは今年で辞めた。
剥き出しになるにはまず自分を切り離した方がイイ。今の答えではこれが最良だ。剥き出し専用の自分となにが剥き出しの状態であるかを探る自分。
自分にとにかく素直になる。そして、自分の不都合も酷悪も醜さも全て見逃さない。傲慢、強欲、嫉妬、憤怒、色欲、貧食、怠惰だって全部ぼくのもの。
それがきっと剥き出しの自分を見つけるという希望の道に繋がると信じている。