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古典文学への飽くなき挑戦 #日記

2025/1/24

本を読むにあたって色んなジャンルを網羅しているつもりだが、今まで明らかに避け続けてきたジャンルがいくつかある。

古典文学と童話、あとは短歌や詩の類である。本を語る上で、古典文学を読んできた経験がほぼゼロに近い僕は、どこか後ろめたさやコンプレックスに近い感情を抱いている。いまだに古典文学に向き合うことに関して、苦薬を飲むような躊躇いを払拭できないでいる。

古典文学への挑戦は今まで秘かに数回行われてきたのだが、どれも失敗に終わっている。一時期オードリー・ヘプバーンに夢中になっていた奇妙な時期があり、その関係でカポーティにしたことがあった。まずは『ティファニーで朝食を』を読み始めた。しかし、映画ほど展開が分かりやすいものではなく、というか映画とは大きく異なる箇所が多く、そのイメージとのギャップに耐え兼ね半分ほどで断念してしまった。

第二弾は、カポーティの『遠い声、遠い部屋』である。自称ハルキストの僕は、とりあえず村上春樹が関わっている本を収集するのが一つの生きがいであり、その一環でこの本を予約・購入した。アマゾンの配達完了通知が届くや否や上機嫌で読み始めたはいいものの、古典文学特有ともいえる独特な語り口に、またもや途中で断念してしまうことになった。

・・・といった具合に僕の古典文学への挑戦は敗北続きなのだが、先日読了した松岡正剛さんの『多読術』を読んで、再び古典文学への熱が込みあがってきているという次第だ。

ラノベやエッセイなど、誰でも気軽に読めるジャンルが広く世間に受け入れられている中で、あえて堅苦しい古典文学に挑戦することに意義を感じるのはただのエゴなのかもしれない。でも、文学を追究したいという欲求を前に古典文学は避けては通れないという使命感というか諦めみたいなものもある。

古典文学が読みづらい理由として、やはり独特な語り口と、現代とは異なる文化や生活様式に瞬時に共感できないというものがあると思う。まるで○○のように・・・、という例えが、毎回ピンとこない。律義に調べながら読むと途方もない時間を要するし、読み飛ばすと話が入ってこない。すべての文字を睨めつけるように追うことで初めて著者の言わんとすることを汲み取れる。それくらい他のジャンルの追随を許さぬシビアさがあると感じる。

読書をまともにするようになってまだ2年程の未熟者には、古典文学は中学生がいきなり大学受験の問題を解くような無謀な行為なのかもしれないと弱気にもなるが、とにかくマイペースでもいいから亀の如く読み進めることにする。とりあえずポール・オースターの『孤独の発明』を読み終えたい。


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