文章を書くことの難しさ
2024/9/22
黙々と風呂を洗い、お湯をため、週に一度あるかないかの湯船につかる。
普段はシャワーのみで、体の汚れをこそぎ落とす作業でしかない風呂という過程を、今日みたいに時間がある日だけ湯船にお湯を溜めることにしているのだ。
隅々まで冷え切ってしまった筋肉が、暖かいお湯にほぐされてゆく。きっとこの心地よさは、冷凍ハンバーグを湯煎するときのハンバーグの気持ちと一致するに違いない。
そして、先ほど投稿したnoteの記事について振り返る。
ここ最近noteで文章を書くようになって強く感じることは、文章を書くってなんて難しいんだろう!!ということ。でも書いているうちに、なんでこんなに難しいのか自分のなかで一つ大きな要因が見つかってきた。
それはいたって単純。語彙力だ。読書なんて大学生になってからやっとするようになった僕にとって、今までの人生で語彙力をつけるために行動した記憶など人並みにもない。
書けど書けどその文章は平凡そのもので、誤字脱字がなくて文章に違和感がないように最低限のセルフチェックをしているだけの僕の文章に、何ら特別感が生まれる様子はない。
語彙力は、想像以上に生活に必要なんだなと最近思い知らされる時が多い。僕のバイト先では、毎回シフトに入るときに時間帯責任者さんと”今日の目標”を立てる。前回までの反省点や、今日のお店の混み具合、今日がどんな日か(天候や休日か平日かなど)、自分に求められている役割は何か?、など多数の項目を自分のなかでどうにか咀嚼し、簡単に目標を立てなければならない。
そんなとき、語彙力がない僕は毎回あと一歩考えていることを言葉に変換できない。うまい言い方が見つからず、無難な表現に落ち着いてしまう。無難な表現というものは、範囲が広すぎて、だいたい大事なところに手が届かないのである。
小説家の書く文章は、やっぱり特別だと思う。活字だけで読者を喜怒哀楽の渦に飲み込むだけのパワーがある。それは力任せで大げさなものではなく、日々僕たちが抱いている感情をズバリ言い当てるような言葉選びだ。まさに、”言い得て妙”である。
僕の書く文章には、そのパワーがない。それが今後備わるような物なのか、才能によるものなのかすら僕にはわからない。それでも、日々本を読む中でビビッときた文章表現はなるべく頭にとどめておいて、noteを書くときはそのまねごとをするのだ。
ピアノの楽譜にはスラーという記号がある。その記号がある場所は、ペダルや指使いを駆使し、その一連の音符を流れるように弾く必要がある。文章にもスラーがあると思うのだ。何も考えずに文章を書いていると、急にペダルを外したりスタッカートするような、はたまたペダルを踏みすぎて雑音になってしまったりする事態になりかねない。それらは間違いなく読み手に不快感を与え、息を切らさせてしまう原因になる。
読み手の集中力を切らさず、喜怒哀楽を与えることができるような語彙力は、どのようにして身に着けていけばいいのだろうか。