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宇宙の果てと別の宇宙と神の存在をめぐるあいまいな随筆
一昨日久々に書こうとしたnote記事を読み返してみた。
なかなか筆が乗らなかったのだが、久しぶりにしては良く書けていた。もしかしたら文章はある程度は上手になったのかもしれない。自意識過剰はよくないが、せめて自信ぐらいは持ちたいと思った。
以下、タイトル通りのこと、つまりいつも頭のどこかで考えていることを言葉にしてみた。スピリチュアルな内容にしたつもりはないし、そういうのはあまり信じていないのだが、結果的にそうなった。
こういう概念をぼんやりと、しかしひたむきに考えていると、どうやってもスピリチュアル的な結論に至るのかもしれない。
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この宇宙には空間的に果てがないと言われているのに、どうして今は別の宇宙も無数に存在すると、科学的にも考えられているのだろうか。
これを論理として理解するのは僕程度の脳では困難だろう。まず不可能と言えそうだ。そもそも一個の人間、それも絶対に優秀でない人間が、宇宙を含むこの世全体をあまねく見通すなどということがどうして出来ようか。
だけど幼少期から僕はこういうことの解明を自分の中の至上命題のように考えてきた。だから無謀で烏滸がましくさえもあるとわかっていても、今なおこれを考察する。
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つまり、地球を考えてみればわかりやすいのだ。地球は球体であるから、地表の二次元平面に沿って彷徨ったところで永遠に宇宙空間に出ることはできない。ゆえに地球には(平面的に)果てはない。
昔の人は、宇宙は存在しない、あるいは宇宙は地球の上空にある半球に貼りついているものだというように考えていたようだが、地表を歩いている限りにおいて、それは無理からぬことだったと言える。
宇宙という『地球の外部』の存在を知るには、地表の第三の方向、つまり上部を考える必要がある。この考察を世界で始めて本格的にやったのは多分コペルニクスだ。そしてのちにその方向に向かって動ける(飛べる)ようになり、地表のしがらみを超えた人類は、遂に宇宙空間に飛び立つことができるようになった。
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これと同じことが、宇宙空間と宇宙の外側についても当てはまると、物理学では考えられているのだろう。物理学的には時空は10次元とか11次元とか言われているらしいが、実際に人間が直観できる限りは四次元である。
だからこの四次元時空上から、直行する四本の線すべて(時間軸を含む)と垂直に交わるような、おそらく人間がしっかりと感知したり認識したりすることができない方向に動いていけば、比較的速やかにこの宇宙を脱出し、この宇宙全体を概観できるようになるのだと思われる。
(言語的に考えれば、それが可能になった暁には、その方向へ移動することを表現する新たな動詞が必要になるだろう)
案外宇宙の果てとか外側とか、別の宇宙みたいなものは、われわれのすぐ側、しかし移動することも理解することも、それどころか考えることさえできない方向に、ひっそりと、しかしどっしりと存在しているのかもしれないのだ。
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そしてそこに神様みたいな存在がいて、その向きに沿った先、しかし位置的にはきわめて近いところから、じっとわれわれすべてを見下ろしているのではないだろうか。
僕はそう考えてもいる。たとえばキリスト教圏の国々を見渡してみると、神の存在を直感的に理解できる、つまり神を直観できる、と主張している人も多いからだ。
そして、僕らのような無神論に近い世界線で暮らしている人びとも、切羽詰まった時には本能的に神頼みすることから、キリスト教圏の人たちの言う『神の存在を直観』する能力が、人に普遍的に備わっているであろうことは妥当性を帯びてくる。
これに沿って考えを広げてみるならば、我々は無意識的にその隠れた次元の存在を感知しており、さらにその次元の先にいる、なにか超然としたものをも感知する能力が備わっているのではないかと推測できるのだ。
多分これこそ、様々な人が言う『第六感』に他ならないのだろう。そしてその第六感で直観できる神のような存在は多分さほど遠くにはいないのだ。
だって第六感とはいえ人間の感覚能力だから、そんなに遠くにいるものを感知できるはずは無いではないか。