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【シンケンジャー】第40話〜第43話


第四十幕「御大将出陣」

 ドウコクは薄雪=薄皮太夫を愛している。自らの辛苦を厭わず太夫を助け、文字通り身を削って彼女の大切な三味を直してやった行動からも、それは紛れもないことである。
 だが、外道である彼の「愛」は、人間が同じ人間に抱くような(あるいははぐれ外道がはぐれ外道に抱くような)それとは趣を異にしている。薄雪が新左からの愛を求めたように、人間はしばしば愛に愛を求めがちである。だが、ドウコクは新左を思って爪弾かれる太夫の三味をことさらに好み、彼女にドウコク自身を愛させようとはしない。
 生前の薄雪が奏でた三味の音は、三途の川の船上に揺蕩うドウコクの心を安らがせた。彼女が外道に落ちてなお、太夫が三味を弾き、酌をしてやることでドウコクは機嫌を良くする。とはいえ、太夫はドウコクにおべっかなど使わないし、一時は腑破十臓へあからさまに親しみを覚えたりもした。人斬りにしか興味のない十臓のほうでは、とりたててなんということもなかったようだが。
 ドウコクが手元に置きたいと願ったのは、ただの恋に破れた女ではない。恋に破れ、愛が成就しないことを骨身にしみて理解しながらも、なお燃え盛るような情熱で叶わぬ幸福を求め、絶対に手に入らないその心に執着を抱く女だ。ドウコクの求めに応じ、太夫は好いた男で出来た三味を奏でる。新左の恨みとも謝罪ともつかない叫び声が、太夫の怨念によって形作られた細指に爪弾かれ、絶対に混じり合わない不協和音がドウコクの耳を楽しませる。
 ドウコクは薄皮太夫の不幸を愛している。まさに、外道の御大将である。

「家臣」として茉子ができるのは、きっとそれだけなのだ。それ以上を踏み込むためには、立場を超えた「仲間」「友人」のカテゴリにまでそれぞれの距離が接近しないといけない。殿が殿であることを自らに任じている以上、家臣である茉子も出すぎた真似はできないのである。


第四十一幕「贈言葉」

 上記でも言及しているが、ことはがくしゃくしゃにしてしまった姉からの手紙をそっと手に取り、元通りシワを伸ばしてやる彦馬さんがただただ温かい。ことはの気持ちも汲みつつ、しかしそっと諌めて励ましてくれる優しい手付きである。


第四十二幕「二百年野望」

 これが学力の格差社会か……という笑えない冗談はともかく、やはり侍にはそれ相応の手習いがあるようである。モヂカラを扱う志葉家の侍ならなおのこと、古文書の文字なども読めなくてはならないのだろう。
 対する源太はたまたま近所に住んでいた寿司屋の倅というだけなので、当然侍の素養など持ち合わせていない。とはいえ、そのハンデをはねのけるだけの新しいモヂカラ「電子モヂカラ」を自ら開発、実装する才覚は素晴らしいものであり、なんなら志葉の侍や黒子たちにも出来なかったことだ。源太がいなければいくつかの装備は実戦投入に至らなかっただろう。源太の生い立ちや今までの努力は誇りこそすれ、卑下するものではない。
 だがまあ、この戦闘準備の段においてどこか仲間はずれのような、寂しい気持ちを抱いてしまう源太の心情は大変理解できるものだ。いくら電子モヂカラが使えたって、それは本来の侍戦隊の歴史からすれば紛い物に過ぎない。積み重ねられた歴史の重みを見せつけられては、心も折れようというものである。


第四十三幕「最後一太刀」

 侍の血筋でもない、古文書も読めない、全て我流な「自称侍」にすぎない源太。だが、彼だからこそできることもある。仲間たちに代わって十臓に頭を下げるという選択肢は、やはり彼の柔らかい頭と自由な立場でしか取れないものである。そして、当の仲間たちもそれをちゃんと理解し、受け入れているのがありがたい。最初からアウトロー気味な千明と最初からガチガチの流ノ介、両極端の二人からのお墨付きがあれば、もう怖いものなしだ。

 自らの死期を見つめ、家族を殺め、数え切れぬほどの人間を斬って斬って斬りまくってきた十臓。死と生のあわいを踏み抜く覚悟などとっくに出来ていたというわけである。
 これは完全に余談だが、先日見た『ウルトラマンブレーザー』ザンギル氏は善落ちしたマイルドな腑破十臓といった感じで、あれはあれで良いものであった。いいお話であった。

 十臓に斬られたことによりアクマロは1つ目の命を失う。かつてだいぶ翻弄されたまま、結局意趣返しは出来なかったシンケンジャーたちである。だが、二の目の巨大戦でようやくお鉢が回ってきた。総力戦により無事に撃破! 2009年最後のテレビ放送、良い年越しであった。いやあ、年明けが怖い怖い。

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