ブルマン一座の読書会 (第9話/全10話)
(九)青山
十二月に入った頃、青山に一通のメールが届いた。自身の過労による発熱も、一週間店を休んですっかり良くなっていた。
「青山様
こんにちは。読書喫茶レトル店長の妻です。ご存知かと思いますが、夫は十月末に体調を崩し、入院をしております。雨が続いて急に気温が下がった時期でした。朝から血尿が出たと言ってソファに座り込み、そのまま立てなくなりました。
ガンの発覚の時に続いて二度目の救急車を呼び、今度こそ駄目かもと思いましたが、病院での迅速な対応で、症状は改善していきました。急性腎不全という診断で、入院当初から大量のステロイドを注入し、そのせいで一時的に暴れたりしたようですが、しばらくしてそれも落ち着きました。
一週間ほどで食事もできるようになり、見かけは普通の状態に戻りました。お見舞いはリモートの会話ですが、笑って会話ができるまで快復しました。ちょうど読みたい本がたまってたんだよ、と枕元に本を並べ、むさぼるように読んでいるようです。
ときおり、青山さんのお話も出てきます。同じ読書好きとして、カフェ経営者仲間として、とても有望な若者がいるんだと楽しそうに話してくれます。俺の入院中に一回や二回、店に来られたかもしれない、お前から連絡しといてくれ、と言われましたので、こうしてメールを差し上げた次第です。
というわけで、主人は元気にしております。おそらく来週には退院できると思います。病気を抱える身ですので、普通の人と同じようにはいきませんが、ぼちぼちやっていくつもりです。いずれは店を再開する予定にしており、その時にはまたお声がけいたします。寒い折ですので、どうぞお体に気をつけてお過ごしください」
メールを読み終え、心から安堵した。最悪のしらせかもしれない、とみなぎらせていた緊張感が、一気に体から抜けた。
取り急ぎお礼を返信し、簡単に近況を伝えた。
翌週になり、ふたたびメールが届いた。今度はマスター本人からだった。
「青山君へ
この間はメールをありがとう。店に来てもらったようで本当に悪かった。僕はもちろん妻も、ネットに告知を出すというところまで頭が回らなかったのです。
いつもあなたのお店のページを拝読しています。読書会の報告が細かく載っているので、楽しく読ませてもらっています。
十月は、『歌うように伝えたい』をやったんですね。おすすめした身としても光栄だし、あれは僕も参加したかったな。自分が塩見さんと似た状況になって、本の内容がさらに身に染みます。
病気のほうは至って順調、という言い方も変だけど、腎不全はほぼ完治しました。ガンのほうはゆっくりと治療を続けていくつもり。こっちはすぐにどうこうなるものではないからね。
入院前の状況に戻ったわけだから、すぐにでも店を再開したいって妻に言ったら、まだゆっくりしてなきゃ駄目、と怒られました。それでも、クリスマスあたりにはやれそうかなと思っています。また本の話をゆっくりできるといいですね。その日が来るのを楽しみにしています」
読書会の報告を読んでくれているのが、とてつもなく嬉しかった。うんうんとうなずいていると、ふたたびメールが届いた。
「さっき書き忘れたんだけど、猫を飼い始めました。妻が働きに出ているから、日中は一人なんだよね。せめてもの慰みにって、本当はそんな理由で飼っちゃいけないんだけど、妹の家でちょうど産まれたのがいて、もらってきた。
全身グレーで、ロシアンブルーの血が入ってるらしいけど、ひどく臆病でね。僕には甘えてくるのに、妻には近づかない。他の人が来たらソファの下に入ってうーうー唸ってる。そのくせ、大好きなおやつを見ると誰でも寄って行って、腰が引けた体勢で食べて、食べ終わったら逃げていく。
猫ってのは不思議だね。賢いのか馬鹿なのかわからないけど、そこが無性にいじらしくてかわいいね。コーヒーの匂いが好きみたいで、キッチンで僕が淹れてると、必ず匂いをかぎにくるんだよ」
にやけたような文章に、思わず笑いがこみあげてくる。きっと、思い切り甘やかして育てているのだろう。そんなマスターの姿を思い浮かべるうち、唐突に次の課題図書が浮かんだ。
『泡/松家仁之(まついえまさし)』。
以前、『消失の惑星』の読書会の際、桐間が紹介してくれた小説だ。すぐそばにいる者を愛するのは難しい、というポイントから連想したという話だった。
青山はその後、自分で買って読み、いつか課題本にしようと温めていた。
東京に住む男子高校生の薫は、学校や世間の押しつけがましさに耐えられず、同世代の輪にも入れない。高二で学校に行けなくなり、大叔父の兼定(かねさだ)のもとで過ごすことになる。兼定は、遠く離れた太平洋岸の町でジャズ喫茶を営んでいた。店を手伝い始めた薫は、店員の岡田から仕事の手ほどきを受ける。なんでも手際よくこなす岡田に憧れを抱くものの、自分とのあまりの違いから劣等感に苛まれる。やがて仕事にもすこし慣れた頃、薫の前に魅力的な女性が現れる。
青山が課題図書にこの小説を思いついたのは、ジャズ喫茶を営む兼定に読書喫茶レトルのマスターを重ねたからだ。そのマスターからふたたび連絡をもらったのは、十二月の半ばを過ぎた頃だった。
店の再開のめどが立った、クリスマスイヴが再スタートの日となるというお知らせだった。次の読書会の報告がお祝い代わりになると思っていたが、メールを読んだ瞬間、さらにいいやり方があることに気づいた。
急いで返事を送った。
イヴの夜、そちらのお店で読書会をさせてもらえないかという内容だった。いつもの参加者にも、次回の読書会は離れた場所でやりたいという旨を、理由と共にメールで送った。
翌日、マスターから返信があった。
「嬉しいけど、参加者さんは大丈夫? うちはけっこう遠いよ」
指摘されるまでもなく、最大の気がかりはそこだった。
勢いで決めてしまったが、高い交通費を払ってまで来てくれるのか、考えてみれば無謀としか言いようがなかった。
その日の夜、仕事から戻った美瑠にそのことを打ち明けた。
「わかった」
美瑠は、最初に参加者を探してくれた時と同じ表情で、部屋に入っていった。
青山も隣の部屋でパソコンを立ち上げ、なにげなくメールを確認した。新規で六件の受信があり、すべて「Re:読書会について」というタイトルだった。
すべてに目を通したあと、急いで美瑠の部屋に向かった。
「メール、打たなくていいから」
思わず叫んでいた。
美瑠は、わけがわからないという顔をしていた。
「返事、来たんだよ。参加者さんから」
「ほんとに? それで読書会は?」
「六人全員、参加だって」
目に涙がにじむのを感じた。
「そう」
美瑠は不思議そうに青山を見つめた。何かを考えている様子だった。
「とにかく、よかった」
安堵の言葉とともに部屋から出ようとしたとき、美瑠が呼び止めた。
「あなた今回は、最悪だって言わなかったね」