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『もしかしたら、 かもしれない』

2025年1月9日、19時40分。
仕事帰り、ふと気づいてしまった。

「もしかしたら、君という存在が即非の論理だったかもしれない」と。

鈴木大拙、という仏教学者を知ったのは数ヶ月前。
少し前に旅先で購入した本『宇宙のカケラ』のなかで、私は初めて鈴木大拙の《即非の論理》に触れた。
だけど鈴木大拙という言葉はもう少し前から聞いたことがあった。
鈴木大拙館。
金沢旅行に行く時に検索して知った場所、行きたかったところ。たしか2023年の12月は改装工事中だったはずだ。
そして、2024年10月に偶然出会った君。それは、偶然だった。
君が私に教えてくれたものは多くあって、そのなかのひとつに鈴木大拙がいた。

はじめて君に会って話をした日、私たちは美術館に置かれた複数の椅子に囲まれて色々な話をした。
椅子のデザインを見ながらアートや建築、気になるものや行ったことある土地の話をした。
そのときに《鈴木大拙》という言葉を思い出した。
金沢の鈴木大拙館に、私は行っていないと言った。
君は、行ったけど鈴木大拙のことはよく知らないと言った。建築を見たかったんだと。
へぇ、そうなんですね。私はきっとそんな風に答えたのだろう。

その日の夜、私は珍しく眠れなかった。
昼間がとても楽しかったのかもしれない、興奮していたのかも。
眠たくなんてなかった。
だから本棚に重ねた1冊の本を開くことにした。

『宇宙のカケラ』(佐治晴夫著)

君と珈琲を飲んでいてるとき、本の話になった。
最近の私は読書をしていなかったけれど、1ヶ月前に長野県松本市の古本屋で買った本の話をした。
「それはたしか、物理学者が語る宇宙の本だったと思います」
すると君はおもむろに、スマホで検索をし始めた。
「この人の本ではありませんか?」
そう言いながら見せてくれたスマホの画面には、私が手に取り購入した、青くて赤い水玉の表紙の本が表示されていた。
「僕の家にも、この人の本が1冊あります」
断捨離をしているという君の部屋にある、数冊の本のことを思った。

それは、深夜2時に読むには難しい本だった。
どちらかというと「宇宙」より、「仏教の世界」と「般若心経」を語る本。
その中に数行だけ出てきた、鈴木大拙の名前と即非の論理。
昼間の会話と深夜の読書がリンクした瞬間だった。
その内容は、難しい上に、ややこしくもあった。

たとえば、鈴木大拙(1870-1966)の「即非の論理」からいえば、AはAである、ということはAはAではない(たとえば、Aは、それ自体が独立して存在するのではなく、“縁起によって” A以外のものからできているのであるから、Aは純粋な意味でいえばAそのものではない)ことによって、AはAになる、ということなのでしょう。

『宇宙のカケラ』より

私はこの部分についてぐるぐると考えながらベッドにもぐった。
すると不思議なことを思い出した。
夏に新宿のシネマカリテで見た映画のこと。
『時々、私は考える』(原題:Sometimes I think about dying)
死ぬことを日々空想する人付き合いが苦手な女の子が、職場である男性に会って、心通わせながらほんの少し周りの人とつながりを持つ、ささやかだけどあたたかみのある映画。大好きな作品。
そのパンフレットに書いてあった言葉が浮かんだ。
わかるようでよくわからない、この言葉が少しだけよぎって、短くて浅い眠りについた。

”死”について考えることは同時に、 ”生”について考えているのだ

映画『Sometimes I think about dying』パンフレットより


『この人はなぜ知っているんだろう?』

私が君に対して初めて思った記憶、印象はこれだと思う。
本のことだけじゃない、出会ったときから他にもたくさんの《偶然》があった。

 住んでいる場所、住んでいた場所
 行きつけの、好きなカフェ
 好きなアーティスト、その呼び方
 行ったことある街、ふと思い出した街

もしかしたら、いままでの人生ですれ違っていたかもしれない。
あの時、あのカフェのあの席に座っていたのかもしれない。

不思議だけど君のこと、自分かと思ったんだ。
私と同じ思考の人がこの世にいるなんて、そんな人に出会うなんて、と。
同時にすこし怖かったのだけれど。

私と君の短い物語。
けれど一生大切にしたい、と思った記憶がある。
私にとって重大な、この発見を残したくなった。



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