永遠と有限
ふと、こんなことを思った。
「明日死ぬとしたら、何がしたい?」
「僕たちの存在は永遠」と聞くと、何か余裕みたいなものが生まれ、この感覚を楽しんでいたいと思える。
しかしそれは頭では理解できず、その余裕が焦りに変わることがある。
そんな時、感じた。
「有限」を。
この「セイヤ」を体験できるのには限りがある。
それは死という体験によって、終わる。
もちろん、このセイヤというアイデンティティが本当の私だとするなら、死によって終わるだろう。
しかしそれはあり得ないんじゃなかろうか?
死でこの全てが終わるんだとしたら、この意識はどこで生まれたんだろう?
それには答えがない。
そして答えられる人もいない。
だからこそ、この不思議と永遠とこの安心に終わりがあるとは思えない。
そしてまた、このセイヤというアイデンティティに終わりがあるとしたら、この問いはとても興味深いものになる。
「もし明日死ぬとしたら、今日何がしたいか?今何がしたいか?」
誰でもいつ死ぬかなんて分からない。
いつ死ぬか分かっている人がいるとしても、問いが変わるだけ。
「〇〇年○月○日に死ぬとしたら、それまでに何がしたいか?その限りある人生で、今何がしたいか?」
永遠と有限は真逆の意味だけど、ぼくの中では同じ意味になる。
永遠があるからこそ、有限が素晴らしいということ。
そうすると、今がより美しく、素晴らしいものになる。
何か問題を抱えてる人は自問してほしい。
「明日死ぬとしたら、今日何がしたいですか?」
その問題はまだ継続してますか?
ぼくの活動を応援してくださったら、もっと深く至福に入っていけるような記事を書けると思います(^○^)