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禅問答は二人いて初めて可能になるが、実際には一人でも可能だ。 "わたし"が湧き起こってくる前に何が在るかを問うてみる。 そこには静寂がある筈だ。 一者は二人にも三人にもなれる。 "本来の私"は一人ではない。
自立とは自分で立つと書くけど、もっと正確に言うと「中心に在る」ことである。 他人に寄りかかるのではなくて、私の中心(今ここ)に戻ってくる。私が立つべき場所はそこで、過去ではない。 経済的自立・精神的自立ってあるけど、それらはここに戻って来るためのターニングポイントに過ぎない。
昔、 「自分が存在していない世界を想像してごらん。 ......................想像できないでしょ? 人は自分が存在しない世界を想像出来ないんだよ。」 って、一時期流行ったのを思い出した。 これは真理だ。 なぜならあなたは観る者であり、あなた無しには世界は存在し得ないからだ。 この体験はあなたは身体ではないと教えている。 ってつぶやきに書き切れなかったので、こちらに書きました。 ので、終わり。
ぼくたちが観ているものって変化していきますよね。 変化は常に起きているし、ぼくたちが観ているもので変化しないものはない。 命とは何?って考えたときに、植物は命あるもの。 彼らは変化する。種から芽が出て、茎・枝が伸び、葉がつく。 彼らは生きている。 変化の中に命がある。 ならこういう言い方も出来るんではないか? 「変化しているもの全てに命は宿っている。」 植物や動物・人だけに限らず、目の前に見えている全てに、今観えている全てに命が宿っているんじゃないか。 そし
今日も暖かい部屋で過ごせて、 今日もご飯を食べられて、 今日も温泉に入れて、 今日も水が飲めて、 今日も大切な人と一緒にいれて、 今日もお酒が飲めて、 今日もアッタカイ布団で寝れて、 ありがとう。
ぼくの欲しかったもの。 それはこれらの景色じゃない。 これらを見た時に感じるココロ。 それは鮮やかで鮮明で、ただただ晴れ渡っているココロ。 それが透明になった時、ぼくはこれらの景色を映し出している。 これらの景色を見るから、心が晴れ渡っている訳じゃない。 心が透明になっているから、これらの景色を映し出している。 ぼくが欲しかったものはこれらじゃない。 これらはぼくが映し出したかったもの。 ぼくが欲しかったものは、ここにあるもの。 あなたの中にもあるもの。
一瞥体験ってみんな体験してるよね。 この瞬間を強烈に体験した事を一瞥体験って呼んでるんだと思う。 それはいつか訪れるものではなくて、今この瞬間を強烈に体験すること。 だからみんな一瞥体験の真っ只中で、エゴもその一部。 あ、あけましておめでとうございます🙏🎉🎊🎍