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水底にて

あらすじ


 触れたものの残留思念が視えるサイコメトリー。義兄の慶太が亡くなったのを機にその能力に目覚めた侑は、周囲にそれを打ち明けられずにいた。
 時を同じくして彼女の前に慶太を恩人と慕う青年・萩原駿が現れる。彼に手渡された日記帳から慶太が亡くなる直前にあった出来事を知る。これまで慶太が抱えていた苦悩に気づけなかったことを悔やみながらも、侑は慶太の最期のメッセージを伝えるため、駿とともにある人物のもとを訪ねる。
 これは、心に闇を抱えながらも、光射す方へと進む人たちの物語。



1



 お義兄ちゃんは、太陽みたいな人だった。お義兄ちゃんが笑うと、こっちも自然と笑顔になってしまうような不思議な力があった。
 その笑顔は今、黒い額縁の中に収められている。祭壇の下に置かれた白い箱の中でお義兄ちゃんは眠っている。他の参列者にならい、私は棺の中に一輪の花を入れた。手を離した拍子に指先がお義兄ちゃんの冷たい頬に触れる。その瞬間、ある風景が頭の中に飛び込んできた。
「大丈夫ですか?」
 葬儀場の職員さんに後ろから声をかけられる。はっと我に返った私は、気遣わしげな表情を浮かべる職員さんに小さく会釈してお父さんたちのいるところに戻った。お父さんの隣でお義母さんはハンカチで涙を拭っていた。
 私たちの他に親族は誰もおらず、参列したのは、兄が生前お世話になった人たちだそうだ。
 お別れの時間が訪れるのを待ちながら、さっきの光景を思い返す。あの時、私が視たのは、崖の上から知らない女の人と一緒に落ちていくお義兄ちゃんの姿だった。

2


 父が再婚したのは、私が10歳の時だった。
 お義兄ちゃんは、再婚相手の連れ子だった。
 急に5歳上の兄ができたことに戸惑う私のことをお義兄ちゃんは何かと気にかけてくれた。お義兄ちゃんも新しい家族との生活に不安な気持ちもあったはずなのに。
 いつしかお義兄ちゃんに対して家族以上の感情を抱くようになった。
 けれど、私は最後まで自分から想いを告げることななかった。ようやくできた家族の形が壊れてしまうような気がしたから。

3


「佐久間さん、だよね?」
 講義室を出たところで、後ろから声をかけられた。振り返ると、そこに立っていたのは、同じ学部の萩原くんだった。
「この後、時間あるかな?」

 講義室の前から学生食堂に移った私たちは、一番奥の窓際の席に腰掛けた。
「話って何ですか?」
「実は佐久間さんに渡したいものがあるんだ」
 ショルダーバッグから彼は1冊の日記を取り出した。
「これは?」
「慶太先輩、君のお義兄さんの日記だよ」
 佐久間慶太さくまけいた。彼の口から2ヶ月前に亡くなった兄の名前を聞いたとき、胸の奥がチクリと痛んだ。
「お義兄ちゃんのこと、知ってるんですか?」
「先輩は僕にとって命の恩人だから」
 それから萩原くんはお義兄ちゃんとの出会いや思い出を少しずつ話してくれた。
 中学時代、ご両親と妹さんを亡くした彼はそのショックから生きるのを辞めようとしていた。その時期にお義兄ちゃんと出会ったのをきっかけに立ち直ることができたそうだ。同じバイト先で働くようになってからも、事あるごとに相談に乗ってくれたという。
「どうしてこれを私に?」
「亡くなる前日、自分にもしものことがあったら、妹に渡してほしいって先輩が」
 茶色い革製の表紙を指でなぞる。その瞬間、またしてもあの日と同じように、全身に電流が走るような感覚に襲われた。
 私の目に映ったのは、慌てた様子で萩原くんに日記帳を手渡すお義兄ちゃんの姿だった。
「佐久間さん?」
「その時、兄は慌ててる様子じゃなかったですか?」
 当事者しか知り得ない情報を言い当てられたからか萩原くんは目を見開いたまま固まっていた。
「何で?」
「この日記帳に触れたとき、視えたんです。焦った様子で兄があなたにこれを渡している光景が」
 そこまで言った時、私は思わず両手を口に当てた。家族にも言えずにいた秘密を大学の同級生に話してしまうなんて。
「すみません。今のことは忘れてください。失礼します」
 引き止めようとする萩原くんに一瞥することもなく私はその場を立ち去ってしまった。

 大学最寄りのバス停に着いたところでお義兄ちゃんの日記を片手に持ったままここまで走ってきたことに気づいた。
「何で持って帰ってきちゃったんだろう・・・」
 あんなことを言ってしまったので、返しに行けるはずもなく、私はそのまま帰路に付いた。

 お父さんたちが眠った後、お義兄ちゃんの日記帳を開いた。
 ずっと引っかかっていた。今まで日記を付ける習慣なんてなかった兄が、何故これを遺したのか。
 ライトスタンドの灯りを頼りにページを捲っていく。そこには4人で暮らし始めた頃のことや大学時代のことについて記されていた。
 最後のページに目を通したところで、私の意識はまどろみの中へと沈んでいった。

4


 お義兄ちゃんがいなくなってから、何度もこの夢を見る。
 自分の身体が暗い水の底に沈んでいく。藻搔けば藻掻くほど身動きが取れなくなっていく。
「侑!」
 どこからか私の名前を呼ぶ声がする。見上げると、地上から誰かが右腕を伸ばしていた。それを掴もうとしたところで私はハッと目を覚ました。身体を起こすと、心做しか背中のあたりが湿っているような気がした。
 寝間着から着替えた後、部屋の壁掛け時計に視線を移す。時刻は午前5時を指し示していた。
 身支度を整え、お義兄ちゃんの日記をカバンの中に入れた私はお父さんたちを起こさないようにそっと家を出た。

5



 ここへ辿りつく頃には、もうすっかり空は明るくなっていた。
 崖へと続くでこぼこ道に何度か足がもつれそうになる。目的地に近づくにつれ波の音が大きくなっていく。
「待って!」
 後ろから誰かの叫び声が聞こえる。振り返ると、視線の先には何故か萩原くんの姿があった。きっとここまで走ってきたのだろう。息を切らしながら、小刻みに肩を震わせていた。
「萩原くん、何で?」
「昨日あの日記を渡した時、君がここに来るような気がしてた」
 彼の真剣な表情にたじろいだ私は肩に掛かったカバンの紐をぎゅっと握りしめる。
「全部話してくれないか?君が一体何を視たのかを」

6


「それ、サイコメトリーじゃないかな?」
 喫茶「sugar&salt」の店主である佐藤渉さんは、私の話から1つの結論を導き出した。
 私たちは今、お義兄ちゃんのバイト先だった喫茶店のカウンター席に腰掛けている。幸い今日は定休日だったため、突然の訪問にもかかわらず、店長さんは快く迎え入れてくれた。渉さんに会うのはお義兄ちゃんのお葬式以来だった。
「サイコメトリー?」
「物体に宿る残留思念を読み取る超能力の一種だよ。少し前にこれを題材にした海外の映画が公開されていた」
 今まで自分とは無縁と思っていた超能力という言葉に戸惑う。でも、それが事実だとしたら、あの時のお義兄ちゃんも・・・・・・。
「大学時代、超能力に関する論文を書こうとして教授に怒られてたもんね」
 厨房の奥から出てきた真由美さんが会話に入ってくる。この店は渉さんと真由美さんのご夫婦が営んでいると前にお義兄ちゃんから聞いたことがある。「そんなこともあったね」と渉さんは照れ笑いを浮かべる。
「君はその時、慶太くんが女の人と一緒に崖から落ちていくのを視たんだね?」
「はい。兄の日記にも同じようなことが書かれていました」
 カバンから日記帳を取り出し、該当するページを開いてみせる。そこには常連さんに万年筆の忘れ物を届けたことについて記されていた。
「それに触れたとき、兄は視てしまったんです。彼女が崖から身を投げる瞬間を」
 その内容に渉さんたちは言葉を失っているようだった。
「慶太先輩も佐久間さんと同じような力を?」
 しばらくして萩原くんが口を開いた。
「残念ながら、兄がいつからその能力に目覚めたかはここには書かれてしません。あの日が初めてだったかもしれないし、それよりもずっと前だったのかもしれません。ただ、一ついえるのは、あの日、兄が崖に行ったのはあの人を助けるためだったんじゃないかって」
 一呼吸置いてから、私は続ける。
「渉さん、その常連さん、ハツミさんという方は今どこにいますか?」

7


「ここ、なんだよね?」
 あれから1週間後、私たちは町外れの木造アパートの前に立っていた。渉さんが知り合いのいる興信所に依頼して調べてもらったらしい。直接会って話をしたいというこちらの意向を伝えたところ、相手から承諾を得られたという。
 インターホンを鳴らす指が微かに震える。ここへ向かう電車に乗っている間、プルプルと震える私の手を萩原くんはそっと握ってくれた。自分は1人じゃないということを彼なりに伝えようとしていたのだろう。
 しばらくして部屋のドアが開き、その人は姿を現した。
「お待ちしておりました・・・・・・」
 今にも消え入りそうな声でハツミさんは小さく頭を下げた。その動きに合わせて、肩のあたりまで伸びた髪がかすかに揺れる。
「あの、私たち・・・・・・」
「中へどうぞ」
 こちらが用件を言う前にハツミさんは部屋の中へ通してくれた。渉さんや例の探偵さんから大体の事情は聞いているのかもしれない。
 彼女に促されるまま、私たちは玄関の中に入っていった。

「慶太くんが亡くなったのは、私のせいなんです」
 居間のローテーブルの前に腰を下ろすのとほぼ同時にハツミさんは口を開いた。重苦しい空気が流れてくるのを感じた私は彼女に尋ねる。
「どういうことですか?」
「彼が亡くなる1週間前、久々にあの店を訪ねました。母がいなくなってから半年経ってようやく周りが落ち着いた頃、ふと慶太くんや店長さんに会いたくなったんです」
 ハツミさんはその時に初めて母親が亡くなったことを渉さんたちに打ち明けたという。事情を察してかそれ以上のことは深く聞かれなかったそうだ。
「お店を出たあと、兄はハツミさんに忘れ物を届けに行ったんですよね?」
「どうしてそれを?」
 私はかばんからお義兄ちゃんの日記を取り出し、その日の出来事が書かれたページを開く。カウンターの上に置き忘れた万年筆に触れたとき、ハツミさんが崖から身を投げる光景が視えたという内容だった。
「とても信じてもらえないかもしれないですけど・・・・・・」 
「いえ、その後でもう生きるのを辞めてしまおうと思ったのは事実ですから」
 ハツミさんはあの日の出来事をぽつりぽつりと話し始めた。
「崖の淵まで来て飛び込もうとした時、後ろから慶太くんに呼び止められたんです。1人で抱えきれないなら、自分も一緒に支えますって」
 お義兄ちゃんの真っ直ぐな眼差しを見たハツミさんはずっと胸の奥に仕舞い込んでいた思いをさらけ出したという。
 不謹慎にもお義兄ちゃんらしいなと思った。周りを顧みず目の前の人に手を差し伸べられる人だったから。
「それでも彼は私の力になると約束してくれました。その言葉でもう少し生きてみようと思えたんです。けど、その時・・・・・・」
 互いに手が触れ合えるまでの距離まで近づいた時、突然強風が吹いたそうだ。それに煽られハツミさんはバランスを崩しそうになった。お義兄ちゃんが咄嗟に手を伸ばし彼女の腕を掴んだが、吹き付ける風に抗えず、そのまま2人は崖から落ちてしまったという。
「それからのことはよく覚えていません。目を覚ますと、病院のベッドの上でした。その時の担当医の話では浅瀬の近くで倒れていたのを発見されたそうです」
 お義兄ちゃんの直接的な死因は溺死だったと聞かされていた。その亡骸は傷がほとんどなく、長い間、冷たい海の中を漂っていたとは思えないほどだった。
「慶太くんが亡くなったことを知ったのは、退院した後でした。はじめは直接会って謝ろうと思いました。けど、私が顔を合わせることでまたご家族や店長さんたちに辛い思いをさせるんじゃないかと思うと怖くて・・・・・・」
 ハツミさんの目から涙がこぼれる。その一雫がお義兄ちゃんの日記のページ上にぽたりと落ちた。
「こんな形になってしまってごめんなさい。どれだけ謝っても許されないことはわかってる。けど、どうしても直接会って伝えたかった。私が彼の未来を奪ってしまったことを」
 思い詰めたハツミさんの表情を目にした私は徐に彼女の手を握った。
「ハツミさん、もうこれ以上自分を責めないでください」
「でも・・・・・・」
「ずっと気になっていたんです。兄とあの崖から一緒に落ちていったあなたがどこにいるのか。こうして生きていたこと、兄もきっと安心してると思います」
「どうしてそれを?」
「信じてもらえないかもしれないですけど・・・・・・」
 葬儀の日、お義兄ちゃんの遺体に触れた時、最期の瞬間が視えたこと、そしてお義兄ちゃんもまたハツミさんの未来を予知していたことなどを簡潔にまとめて話した。
「たしかに私もハツミさんと同じように生きるのを止めようと思ったこともありました。けどそれ以上に知りたかったんです。あの時、兄は一体何を思っていたのかを」
「どうしてそこまで?」
 ハツミさんに代わって萩原くんが隣で尋ねる。
「私も以前、兄に命を救われましたから」
 お義兄ちゃんと出会ってから初めての夏休み、私たちは海に来ていた。そこで私は貝殻を拾いに海岸沿いを歩いていたのだが、その途中の岩場で足を滑らせてしまった。海の中へ落ちて溺れそうになった私を引き揚げてくれたのが、お義兄ちゃんだったのである。
「この日記のおかげで私はあの時のことを思い出せたんです。それだけじゃありません。ここには兄の最期のメッセージが記されていたんです」
 私は日記の最終ページをハツミさんに見せた。そこには彼女を救いたいというお義兄ちゃんの切実な想いが綴られていた。
「慶太くん・・・・・・」
 最後まで読んだハツミさんは日記をゆっくりと閉じ、それを自分の胸に押し当てた。両目に涙を浮かべてはいるが、さっきまでと違い、その表情は晴れやかだった。

8


「ごめん、結局何もできなくて」
 無人駅のホームで帰りの電車を待っている時、萩原くんは私に頭を下げた。
「何で萩原くんが謝るの?」
「あの時、ハツミさんにどんな言葉をかければいいかわからなかった。けど、佐久間さんは慶太先輩の最期のメッセージを伝えてくれた。きっとあの人にもちゃんと届いたと思う。結果的には君に辛い思いをさせてしまったけど・・・・・・」
「確かに最初は兄が亡くなったという事実を受け入れられなかった。でも、ちゃんと向き合えるようになったのは、萩原くんのおかげだと思っている」
「僕の?」
 それまで俯いていた萩原くんが顔を上げる。
「兄の日記を読んで、私は兄の本当の想いに気づけた。そのきっかけをくれた萩原くんにはむしろ感謝している」
「佐久間さん・・・・・・」
 向こうから車輪の音が聞こえた。振りかえると同時に2両の電車が私たちの前で停車した。
「それじゃあ、乗ろうか?」
「うん」

 お昼過ぎだからか車内には私たちの他に乗客は誰もいなかった。ガタンゴトンと揺れる車内でふと窓の外に目を遣る。視線の先にあったのは、青い海だった。
 お義兄ちゃんは、あの中を漂っていたのだろうか。今となっては、もう確かめようがない。けれど、あの2人の身体は水底に沈むことなく地上へと還ってきた(結果は全く違っていたけれど)。
 窓の向こうの景色に手を伸ばしてみる。
 これからも私はお義兄ちゃんのいない世界で生きていくのだろう。
 でも、大丈夫。私の近くには彼とともに時間を過ごしてきた人たちがいるのだから。

(了)


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