
舞台「ブラックジャックによろしく」を鑑賞した感想(2024年7月)
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はじめに
こんにちは、シヅクです。
これを書いているのは2024年の12月。もう4ヶ月も経ってしまったけれど、7月に観に行った舞台「ブラックジャックによろしく」の感想をまとめようと思います。
かなり記憶がウロな上に個人用の備忘録ですので、責任は持てません。その辺ご了承ください。
舞台の内容に触れるので、これから原作を読もうと思っているの方にはネタバレになるかと思われますのでお気をつけください。
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私のnoteは読まなくても良いので原作は読んでくださいっ!!!!!!
きっかけ
私は三浦涼介さんのファンなので、ファンクラブ経由で舞台上演のことを知った。2024年の5月か6月くらいのことだったと思う。
5月中旬くらい、「儚き光のラプソディ」東京千秋楽を観に行く少し前に色々あって………。それで正直、舞台「ブラックジャックによろしく」も行こうか迷ったのだが、流石にこの原作なので行くことにして、ファンクラブでチケットを取った。
私はこの作品をいつか読むのだろう、とずっと前から確信していた。
それは有名な作品だからとか無料公開されているからとか以上に、私の実家の本棚に全巻揃っているのをずっと認識していたからである。
小学生くらいの頃、父が新刊を読む度に「(内容が)重い…」と呟いては母と感想を語り合うのをよく見ていた。その様子や医療というテーマから、「自分はもう少し大人になってから読んだほうが内容を理解できそうだな」と考えて手を付けずに居た。
そのまま高校卒業と同時に家を出たため、原作には触れられずに居た。この度のことで母に「三浦さんが舞台版に出るよ!がんの話で、庄司先生って人を演じるんだけど覚えてる?」と連絡したら、「あんまり覚えてな〜い。漫画売っちゃったもん」とのことだった。
売ったんかい!!!(笑)
私の両親はどんどん漫画を買い足す人達なので、本棚が狭くなっては読まなくなったものをどんどん売っていく。その餌食になってしまったようだ。
会場
会場は赤坂レッドシアター。夏のよく晴れた暑い日だった。
名前は聞いたことがあった。TBSラジオの宣伝かな。
飲食店などが立ち並ぶ中にある赤いキューブ型の看板を目印に、地下へ続く階段。そこに並んで待つ。開演までの間にグッズ販売が行われていたので、その列である。
ホールはかなり狭かった。グッズはパンフレットだけ購入。
いつも思うことだが、ランダム商品の販売ってどうなんでしょうね。
感想を読みたくてSNSでエゴサする中に必ず交換譲渡のアレが出てきて、「これを客にやらせるのってどうなんだろう」「これを見た演者はどう思うんだろう(ものによっては需要に偏りが出るし)」と、いつも安穏たる気持ちになる。
それをやるお客さんを責める気持ちでは無く、そもそも販売側がそれをやらなきゃ良いだけの話。まぁ、ランダムのほうが絶対儲かるんだろうけどさ〜。
面倒くさいしTwitterやってないしお金かかるし面倒くさいし、クソムカつくから私は絶対買わないけど。あと面倒くさい。
いつだって私の心の中には、三浦さんの庄司先生のホログラム仕様トレカがありますから…。
※この人は特殊な訓練を受けたオタクです※
席に着いて驚いたのが、思っていた以上にこじんまりとした劇場で、最後列からでも舞台が近く感じられるということだ。この近さで三浦さんのお芝居を浴びられるなんてちょっと贅沢過ぎでは?!と思うくらい。
私がファンクラブで取ったチケットはL列だったのだが、一番後ろの一個前だった。そう言われるとステージから遠いように聞こえるが、やはり全然遠く感じなかった。
開演前から一部役者がステージ上に出ているので、早めに着席するのもおすすめ、と公式ツイッターからアナウンスがあった。実際入ってみると、舞台美術やプロップがすでに展開され、一部の俳優さん方がすでに役を演じられていた。
入院中の患者や、その関係者、この後に困難が待ち受けているのだろうと思われる家族…彼ら彼女らの日常がそこにはあった。
ステージの上は十字に四分割されており、客席から見て奥側は一段高くなっている。それぞれのエリアの間には溝があり、まさに病院にあるような白いカーテンでそれぞれを仕切ることが出来る。それによって場面展開や時系列を表すというシステム。
ステージ下手側下段には病院のベッドの上で読書する男性、その上段に千羽鶴を折る少女。上手側下段にはベンチでタバコをふかす女性。
上手側上段の少年が茶の間で見ているのは、ブラウン管のテレビ。そこから流れるヒット曲で、物語の舞台は2000年代初頭だと分かる。そこに晩御飯が用意され、両親らと食べはじめる。唐揚げとサラダと白米、実際に食していたように見えたがどうだったのだろう。
とくに母親が明るくムードメーカーな家庭であるようだ。まるで病気とは無縁に見えるが…。この時点でストーリーが大体分かってしまった私は割りかしショック。
ちなみに私は忙しくて原作を履修する余裕がなく、何の知識も入れずに鑑賞しに行った。分かっているのは役者となんとなくの配役、がん治療の話であるということ。
役名発表の前は「三浦さんが患者の役だという可能性もあるのでは」という意見も見かけて「ハゥ……ッ!ハウアッ……ウゥ」となっていた。
(患者の役といえば2013年のドラマ「女医 倉石祥子2」のゲスト回ですかね。画像ググったら出てきた、呼吸器つけてる写真を見ただけで心臓ギュンなったから今日はもうおしまいです。)
ステージ上で描かれる生活、けれども確実に進んでいく時間…。
穏やかさの中にある緊張感を感じつつ、気がつけば幕が開いていた。
感想
まずざっくり。
賛否で言えば圧倒的に賛!!!
脚本は白川ユキさん、演出は田邊俊喜さん。
このお二人といえば、2023年11月に上演され、三浦さんも出演した朗読劇「源平刀剣七夜譚」。「ブラックジャックによろしく」の後にも朗読劇「刀鋸方舟博覧記」にてこのお二人とお仕事されていた。
白川ユキさんの脚本って私は結構好きだな、と思う。
私は自分で小説を書くときに気をつけていること、意識していることがあって、それは「分かりやすさと、現実的であること」である。
鑑賞する側として特に原作があるものについては、それに加えて「合理的であり、尊敬をもってアレンジを加えることで、違う媒体で表現する価値や意味を持たせているか」を考えながら見ていると思う。
白川さんの脚本はそのバランスの良さが有るな、と思うのだ。
分かりやすさ。
ある量子力学者は言った。「何よりも難しいことは宇宙の仕組みを理解することでは無く、何の知識もない人に対してもそれを分かりやすく説明することだ」と。
また、こんな話もSNS上で見かけた。
「本当に小説が上手い人というのは、小難しい熟語を多用する人のことではない。誰にでもわかりやすい言葉で、シンプルにかつ最大限に効果的に、その心理描写を読者に届ける表現ができることだ。」
(例文を忘れた。「私は部屋で一人、タバコを取り出してから項垂れた。上着のポケットにはライターも無ければ、火をつけてくれる友人ももうこの部屋には居ないというのに。」確かこんな感じの文章。)
読みやすく分かりやすく、それでありながら惹きつける内容で、しっかりと展開しつつもキャラクターの心理描写には手を抜かない。そんなものが私も書けるようになりたいし、それがキチンとなされている脚本に好感を持てる。
ここで言う”分かりやすさ”とは説明台詞のことでは決して無いので悪しからず。
必要の無いセリフは言わせず、かつちょっとした一言でより効果的に。それが私の思う良い脚本…というか、そんなの当たり前だと思うけども。
原作からのアレンジとそれをする意義については以前こちらに書いた。
結局脚本なんだよなぁ、と最近思う。
でも、私が今夢中で見ている「ツインピークス」や「ピースメーカー」だって、ぱっと見「この会話必要か?笑」というようなシーンも沢山あるわけで。それでもずっと面白いしそれが無駄だとは思わせない、むしろ作品の雰囲気がよく出る癒しの時間なのだと思わせる。
面白いってどういうことなんだろう?…素人の私は素人なりに楽しみながら考えながら、今日も何かを鑑賞している。
舞台の内容について思ったことは、「いつか必ず自分や自分の周囲の人にも起こることなのだ」ということだ。
本編中のセリフにもあったが、ガンというのは4人に1人がなるものだと昔は言われていたものが2人に1人と言われ、現在では100%の人間が経験する可能性があるという。
細胞分裂を繰り返して生きる生命体である限り、そこにエラーが発生して悪性腫瘍となることは誰しもの体に起こり得るわけで、その前に寿命で亡くなっているだけとも言える、と。
実際、既に私の身の回りでも起き初めている。
私の友人は若くしてがんで亡くなったし、母の知り合いも何人かがんで他界してしまった。両親や祖父母はまだ無いが、まだ、というだけなのだと思う。
今回の話では特に「自分あるいは一親等の家族が、がんの宣告を受けたら」ということを考えさせられた。パートナーと観に行けば良かったなーと思った。
がんの宣告を受けるまでに何が出来るのか、準備しておくべきなのか。もちろんそれは今までも考えたことはあったが、お金のことを主体に想定していた。
しかし、今作を鑑賞して思ったのは「命の尊厳」「自分がどう生きたいか、死にたいか」「では家族はどうか」ということである。
そこについは、少し前までは「医者から患者に告知するかどうか」が議論の主体であった、という医療現場の実態についても、私は意外に思ったほどである。
がんと言えば、医者が患者に対して「余命○ヶ月です」と宣告するシーンを想像するが、それもここ十数年で定着したことのようだ。
本編中にそのような会話が出てきた瞬間には「えっ言わないの?!」と驚いたが、抗がん剤の副作用に苦しみながらも退院して家族の話を嬉しそうにする患者の辻本さんの姿を見た時、「私が医者だったら言えるか」「また、私が患者だったら余命宣告を受け入れられるか」と考えた。
患者は、いつかきっと良くなる、と信じて懸命に生きている。明日のことは分からないし、身体のこともやってみなければ分からないことだらけだ。
しかし、その「やってみなければ分からない」ことこそが希望なのだ。明日の朝起て何かがすぐ変わっていなくとも、それを積み重ねて行けば少しずつ、何かが良くなっていく”かもしれない”。
物理的なことより実際の体調より何より、患者を奮い立たせ支える希望こそが、その未来なのだ。
余命宣告をすること、現状を正直に伝えることでその”かもしれない”を奪ってしまう。明日こそ今日より良くなる。そう信じたまま眠って、そのまま起きないことの方が、ある意味幸せなのかもしれない。
一方で、余命宣告を受けることのメリットもあるだろう。それは残された時間をどう使うか、どう生きて死にたいかを自分で考えて選ぶことが出来る。
元気になったらやろう、と後回しにしてしまうより、真実を知ったほうが後悔無く選択できる面もあるだろう。
その点では、ある程度の加減で患者に告知し、抗がん剤治療によって1日でも長く患者の命を永らえようとする庄司先生と、抗がん剤の投与はせず毎日を丁寧に患者と生きて、死に向き合う方針をとる宇佐美先生の対立がより明確に見えてくる。過去に同じ経験をして、異なる道を選んだ二人の信念が。
…などと書いてはみたが、現実はそこまで割り切れないものだ。
辻本さんの「絶望って眩しいのね」という言葉がその全てを物語っていると思う。
その辺も踏まえて、このように考えあぐねることが出来ただけでも、この作品を鑑賞する意味があったと感じている。
原作との比較、演者について
原作となった漫画は鑑賞から数ヶ月経ってから読んだ。舞台との違いとしては、以下のような点かと。
・舞台版は皆川ちゃんが居ない。変わりに赤城さんがテキパキと斉藤先生を手伝ってくれる。
・上記のことから、舞台版の赤城さんの方が明るくて優しい。漫画とは優しさの種類が違う印象。
・漫画では辻本さんのお子さんは二人で男の子と女の子だったが、舞台では男の子一人。尺と配役の関係上だと思われるが、今回の脚本の肝となるシーンに二人いる必要は無いので当然の決断かと。
(漫画ではそれぞれの子の対応の違いが見られて、それはそれで非常にグッと来る。)
・原作ではがん患者編の次に描かれる精神病棟編で初登場の門脇記者が、舞台では最初に登場する。
・舞台の構成としては、宇佐美先生と共に緩和ケア課を切り盛りする庄司先生の元に、門脇記者がインタビューしに行くという内容。
・斉藤先生との出会いから緩和ケア課創立までのことを庄司先生が思い出す…という導入。この構成は原作への造詣が深いなと感じられて、良いなと思う。
原作を読んでいない人も入りやすいし、読んでいる人への目配せも感じられる。
・漫画全体を通してみると、脚本の白川さんはちゃんと全巻読んでこの作品の本質やメッセージを咀嚼してがん患者編に落とし込んだのだな、ということがより深く理解できた。
他のエピソードで出てくるセリフが舞台の中に落とし込まれていたり、舞台の最終的なテーマが「医者とは一体何なのか?」ということだったりするからである。
がん患者編が舞台化されたわけであるが、原作からカットされたシーンがほぼ無いことも驚きだった。
SNSで感想を探すと、「展開が少し早い」という意見も見られた。確かに、4つに仕切られた舞台上のエリアをスピーディーに行き来して場面転換を表すことも多かったが、私はあまりそう感じなかった。
むしろ「よくやったな」とすら思う。(何様?笑)まとまりがあって良かった。休憩を挟んで3時間にすることも出来ただろうが、この内容においては2時間に収めることの方がテンポが良くていいと思う。
本編中における緩急もちゃんとあった。時間と事象は端的なセリフでさらっと、感情が溢れるシーンの描写はじっくりと。
演者について。
三浦さん演じる庄司先生の印象は、三浦さんが過去に演じたものだと「呪術廻戦」の五条先生が近いかな。
天才でカリスマ性があってどこか惹きつける魅力があって、気さくでお茶目だけど、それは胸に抱えたものがある裏返しな部分もあり。
三浦さんは寄る辺ない儚さを感じさせる役も合ってしまうけど(この後に鑑賞した「手紙」の直貴くんとか特に)、カリスマ性があって周りを動かすような役もとても似合うし、説得力があるので素敵だった。
最終盤、庄司先生が辻本さんに胃がん用の抗がん剤を処方するためにカルテの改ざんをしたことが明るみになり、病院を追われるシーン。
白衣を脱いでワイシャツと黒いスラックスの姿でステージ中央に置かれたベンチに座るのだが、長い腕と脚がフォーマルな衣装に映えてきれいで、かつ、なんだか幻想的だった。じーっと見つめてしまった。
終演後、御本人がインスタで「目を背けていたことと向き合うことが出来た」と書いていた。(佐藤アツヒロさんと映っている写真)
これは私も鑑賞前に頭をよぎったことであり、それを踏まえてみても、三浦さん演じる庄司先生が悩み、迷い、それでも医者として歩みを進めない苦難が胸に沁みたのであった。
主人公の斉藤先生を演じた今江大地さん。
まさに想像の中の斉藤先生そのままだった!がむしゃらで真っ直ぐで、時には真っ直ぐ過ぎてプロらしくない斉藤先生。けれどもそんな姿勢が指導医をも動かしていく。そんな姿がイメージ通りピッタリだった。
宇佐美先生役の田鶴翔吾さん。
寡黙で融通の利かなそうな感じが、原作とはまた違った形で出ていて良かった。
カーテンコールでは三浦さんと明るく笑い合ったり握手したりしていた姿が印象的で、確かに今回の舞台は斉藤先生と庄司先生というより、庄司先生と宇佐美先生の関係性の終着点、というストーリーの一面もよく描かれていた。
原作では斉藤先生が指導を受ける科の一つ、通過点の一つ、という位置のお話であったが、舞台ではこの科しか描かれないため、その二人の対話がより強く心に残るのだろう。
他の俳優陣も皆さんとても素晴らしく、書いていくとキリが無いので割愛させて頂くが、この方だけは最後に触れさせていただきたい。
膵臓がん患者として庄司先生の治療を受けることになった主婦、辻本さん役の鈴木千佳子さん。
鈴木さんは三浦さんと同じ事務所に所属していらっしゃる上に、三浦さんのライブでMCを務めたこともあったので、私は鑑賞前からお名前と顔が一致していた。
お芝居を観るのは初めてだったのでそれも楽しみだったが、とにかく圧倒された。
特に鈴木さんの声が良いなぁと私は思った。明るく朗らかだけど、芯があって、母であり妻でありそれ以前に血の通った1人の人間であることが声と振る舞いに強く出ていたように感じられた。
何の変哲もない主婦がある日を境にガン末期の患者となり、その全てを知らないままに病と闘いながらも家族を支える明るさは捨てず、しかし、斉藤先生と出会ったことで全てを知り、それでも立ち向かってゆく。
そして、そんな辻本さんという患者の出会いこそが庄司先生の心をも動かす。
患者が居て医者が居る。医者が居るから患者が居る。両者を結び付けるのは病。
原作の他のエピソードでも印象的な患者は多く登場する…というか、彼ら彼女らの存在を軸に話は展開し、主人公の斉藤先生は奮闘し成長していく。
そんなキーパーソンである辻本さんにぴったりな存在感とエネルギーを持ったお芝居を見られて、良かった。
漫画「ブラックジャック」の思い出
「ブラックジャック」と言えば。
私が手塚治虫先生の漫画「ブラックジャック」に初めて触れたのは、小学校低学年の頃、テレビで放送されたアニメを見た時だ。いわゆるリメイクというものだったのだろう。
崖っぷちにそびえる怪しげな家、そこに住むブラックジャックと小さな女の子・ピノコ。そのシチュエーションと話があまりにも衝撃的で、母が色々と説明してくれるのを聞きながら見ていた。
私の両親は共働きだったので、当時は放課後に預かり所に向かい、いつもそこで親の迎えをまっていた。
ブラックジャックのアニメを見ていたその時、私は預かり所の図書室にも同名の漫画があることを思い出していた。(OBからの寄付により漫画が大量にある所だった)
学校が終わった後、すぐに原作となるその漫画を読んだ。アニメ以上に衝撃的で胸に迫るエピソードの数々に息を呑んだ。今にして思うと、小学校低学年の子供にもそれだけの経験を与える作品だったということである。手塚先生はやっぱり凄い。
今でも記憶に残っているエピソードが2つある。
一つは、あらゆる臓器の位置が通常とは左右反転してしまっている患者の話。
先生は「いけるっしょ」って感じで手術に入るんだけど、天才だからこそ、慣れているからこそ、反転している臓器に四苦八苦してしまう。(BLEACHでも平子真子が「歴戦の名手だからこそ、体は反射的に反応してしまう」みたいなこと言ってたもんね!)
それは本人にも意外なことだったようだが、そこでピノコが手を差し伸べる。彼女は鏡を持って来て、「こえなら反対に映ゆわよ、せんせい」と言うのだ(すっっっっっごいうろ覚え)。
かなりのファインプレーなのであるが、これの何がグッと来るかと言うと、この手術の直前に二人にはちょっとした諍いがあって、雑に言うと”ケンカ中”というか、ピノコが空まわり気味だったのだ。そんな中、彼女こそが先生を助け出す。そんな話だったと思う。
二つ目は、皮膚から植物が生え続けてしまう少年の話。
何もして居なくとも、その少年の皮膚からは芽が出て(小さな双子葉がポンと出て来る感じ)、放っておくとどんどんと葉が生い茂っていく…という奇病だ。
少年は外では生きづらいため、家の中で勉強をしようとするのだが、鉛筆をもつその手からも葉が生え続ける。手で払いのければあっさりと落ちるのだが、キリが無く、集中出来るわけもない。
その奇病の由来は、少年の母親にあるという。それは彼女が昔見た、とある植物が原因らしいのだ。
その植物はひとりでに増殖していく変わった品種のもので、花を付けずとも葉っぱから葉っぱを生み出し、その葉が土に落ちてはそこからまた同種が生えてくる。理論上はそうして無限に増えていく…というものであった。
少年の母が昔見たその植物の葉がどうにかなって胎内に入り込み、少年に寄生したようなのである。 詳細もオチも全く覚えてないが、とにかくこの「肌から無限に葉っぱが生えてくる」描写が恐ろしく、子供ながらに「どうしよう」と怯えた。
さらに私を震え上がらせたのが、この少し後に件の植物の本物に出会ったことである。
それは私の祖父母の家にあった。
祖父母の家の玄関前に置かれたいくつかの植木鉢。その中の一つを指して、祖母が「これ持ってくか?」と言った。
「どんどん増えて困るんだ、これ。変な葉っぱで。」
「どういうこと?」
母がその植木鉢を覗き込んで尋ねる。その植物は背は高くないが、しっかりした幹と多肉植物のように肉厚な葉。花や蕾は無い。
「ほら、葉っぱのフチがギザギザしてるでしょ、このギザギザの間からまた小さな葉っぱが出てきてるの見える?」
「本当だ」
確かに、そのギザギザの間の全てから小さな双子葉が芽吹いている上に、地面に向かって細い根も伸び始めて居る。
「この小さい葉っぱがどんどん大きくなって重くなると下に落ちて、そここらまたおんなじのが生えてくるんだよ。ガラスに霧吹きで吹き付けるとそこからも生えてくるんだってさ!」
祖母は言いながら笑うが、この時点で私は顔面蒼白だ。
「どんどん増えて邪魔だから、こうやって葉っぱが出てきたらちぎって捨てるといいよ。水もあんまりやらなくて良いし、丈夫だから楽。」
「へ〜。じゃあもらってくわ。」
あっさり返事をした母に私は漫画で読んだことを話して注意を促したが、母は言った。
「手塚先生ってやっぱり凄いね!!」
その態度に拍子抜けしてしまったのと、怖いもの見たさもあった私もまた、その植物を我が家に受け入れることにした。
その植物は幾度かの引越しを経た今も、実家のリビングの隅で生きている。分裂を経た上の何代目なのかは分からないが。
この植物の名前や漫画のエピソードのこともググればすぐ出てくるのであろうが、敢えてそれはしないでおく。
伊集院光さんが「深夜の馬鹿力」で、このようなことを話されていた。
「電車を撮ろうとして写真に映り込んでしまった木や看板をPhotoshopで消せるのはすごいことだけど、そういうのこそ良い味が出るのではないか。端に映った自分の腕時計を見て、『この頃はこの時計よくつけてたよなぁ』と思い出す、みたいな。」
「今はスマホで沢山写真が撮れて、その中から我が子が目を閉じてしまった写真などを削除できるけど、後になって本当に見たくなるのはそういう写真なのではないか。」
私にとっての漫画「ブラックジャック」にまつわる思い出や衝撃、あの植物との出会いはそういったものなのだ。虚になっていく景色の中で、いつまでも色鮮やかな、心をざらりと撫でる記憶の栞。
とはいえ、「ブラックジャック」はやっぱりまた全巻読み返したいのだが、複数の雑誌で連載されていたためか「〇〇版には収録されているが△△版では読めない」というエピソードが結構あるようで…どうしよう、どれを買えば良いんだ?!ってずーーーっと迷ってる。
最後に
というわけで、数ヶ月前の夏に観に行った舞台「ブラックジャックによろしく」の感想をダラダラまとめてみた。
私の世代からすれば「遠くない未来に経験するであろうこと」を目撃して感じられたようであり、もう少し上の世代の方からすれば「現在の自分や周囲の人が戦っていること」「既に経験したこと」であったどろうし、私自身も鑑賞中に何度も涙が流れたし、客席のあちこちからも鼻水をすする音が聞こえたことをよく覚えている。
この作品を準備し上演してくれたスタッフの皆様と演者の皆様、何より原作を公開し続けてくださっている佐藤秀峰先生に最大限の感謝と尊敬を。ありがとうございました。
そして、ここまで読んでくださった方がいらっしゃったとしたら、ありがとうございました。
次は音楽朗読劇「手紙」と「GOTT」の感想をまとめようと思う。
それではまた〜。