ACT.7『飛んでけ広島』
船、乗らないんですか?
行先を開示せずはぐらかした事、家族にはギリギリまで伝えなかった事、等。ここまでの計画は非常に無策というか無意というか。
非常に自分にとっては何か頭を数回は捻ったものになった。そもそもの話だ。
当初はこの福岡県をフェリーで離れて再び大阪南港に上陸する予定だった筈だった。しかし、何かこう自分でも急転換する考えが浮かび始め言い訳ついでに
「家族には船の座席取れなかったと誤魔化すか」
として先を諦めた。
こうして車内から本州への行先を何ヶ所か絞り、その先で直近弾き出せたのが「広島行き」だったのである。
地下鉄を下車して博多駅の空間に浸らず、バスの聖地と呼ばれた博多を眺める事なく、今俺は広島行きの高速バスに乗り込もうとしている。いよいよ本当に九州の地との訣別だ。
南福岡駅前のコンビニで支払い決済を済ませていたのはこの分だったのである。お陰で何か体力は…と危うくなったものの、自分の愛好するウィラーポイントは微弱ながらも貯まり何か好発進出来たような気がしなくもない。
それでは、福岡を離れて一路広島を目指し進んでいこう。
バスは古賀SAに到着した。
乗車したバスはそもそも乗車前から「観光形での運用」と記されていたので、このSAでのトイレ休憩は必然的なものだった。このSAでは土産物の販売だけが粛々と行われており、何か九州を離脱する自分には少し特別なモノに見えてしまったりもした。
結局、販売品には「長崎」や「佐賀」などの文字もなければ今の自分には土産を買って乗り込む気力などそうなかったので、コレに関しては眺めて再び車内に戻った。
しかし、この古賀SAの土産物コーナーには「福岡あまおうポテトチップ」なるモノがあり、コレを買って大団円を…!等良からぬ話へ結びつけていたが、結局手をつけなかった。
この手の話を思いついたのは、自分がよく通っていたバーでかつて「秋田の珍土産・ババへらアイスポテチ」を開封するイベントがあった話を密かに覚えていたからだろうか。結局そんな話が浮かんで白けたのもあるのかもしれない。
古賀SAでは結局車中に戻る前になんだかんだ悪ノリ?のような事もしていた。
「日本最南端?最西端?のSAに来た!」
という感動が何か爆発していたのは間違いなく、こうして
「思えば遠くに来たもんだ」
などと思わせるような記録も残してしまっていた。
なんだかんだ、こうした縁がないと九州のSAなんて見ないし少し特別な体験だと思う。暫くは吉田正尚好きが高じて母に面倒を見てもらったレッドソックスの帽子を被りながら、学ランショットを決め込んでいた。(側から見たら変ではないか?)
その後、バスは小倉駅に立ち寄った。その後については全く記憶していないが、恐らく
関門海峡を渡って本州をずっと走っていたのだろう。
着いてしまった、失ってしまった
広島に到着した。
しかし周辺には何もない上、TVのドッキリかと思う勢いで何も見えない。アイマスクをしている訳では無いし、何処どう歩いて良いか分からない。暗黒の街でいきなり「ひろしま」とアナウンスされて放り出されたような感覚だ。
あるのは微かな新幹線連絡通路の光だけ。本当に何もなかった。しかし同時に、自分の身辺からも何かが無くなっている事に気付いた。
1つはレッドソックスのキャップだった。家族が吉田正尚のファンである事を支えに用意してくれたモノである。
バス車内で「落ちた」という感覚はあったものの、暗闇の車内でそれを「何処に」落としたのかが結局わからなかった。そのままバスの回送車両と共にどこかへ消え、短い自分との伴侶を終えたのである。
もう1つは、別府で調達した傘。コレについては失った後悔もそんなに今はない。
「アホな事を…」
と家族に頭を抱えられたが、自分にとってはあの急場で必要だっただけで、誰かが次使ってくれたらそれで良いと思った。この傘に関しては、家族に「責められる」事が面倒だと思っていたのは今となっての裏話である。
そして、寒い中を学ランに防寒対策で広島の路面電車口まで向かった。
写真はその際の記録である。結局左右も不明な広島の道。今の自分に出来る事は行先を決める事だけで、結局その行先を決めるのは「広電」と縁のある場所にした。
駅には保線車両らしきモノが車止めに?と停車している。こんな姿も滅多に無いと撮影をした。
今回は呆れるほどの早朝に到着してしまった…ので、広島早朝における暇つぶしとして「千田車庫」・広電本社の朝を来たからには覗きに行ってみる事にした。
トラムファン・鉄道ファンからは「平日行く事に面白さがある」と言われそうな千田車庫だが、今回は予習も含めて向かってみるだけ向かう。
自分が世話になったゲストハウスなどの後ろを通過し、途中に大通りや狭い道などを歩んでいく。そして、裏から路面電車…というよりは機械的な音が聞こえてきた。
プシューッ。キイイッッッ、クォォォン、、、
すぐ近くに路面電車がいる!!
何か自分にとってはようやくというか、動物や珍しい生き物でも発見したかのような挙動で千田車庫裏の道を走った。
記録はそんな千田車庫の裏道。音が聞こえた瞬間に構えると、大通りへ繰り出す連接型の姿が見えた。
驚け、その収容力
千田車庫は日本屈指の路面電車の聖地…であり、収容力だけで数えるのならば実にトップクラスを走っていると思う。
写真はその一部、なのだが町工場ともガレージとも似つかわしくない部分に電車がギッシリ入っており、しかも距離感まで完璧だ。更にその背後を見ると5連節車体の長編成車両まで同じ屋根の麓保管をしている事が伺える。
そして、この後の出庫撮影で自分は本格的な千田車庫の恐ろしさに驚愕するのだった。
先ずは千田車庫にの門前に出た瞬間、早速だが連接車の出庫に遭遇した。先ほど既に1編成を出したというのにもう出すのか??と驚愕したが、これがいつもの事の話らしい。そのまま事は進んでいった。広島の町に本当の朝が来る。戦前からずっと人々を照らす希望の光だ。
そして再び、その後列に待機していた単車が大通りに繰り出して行った。間隔がないというか、その勢いは実にパレードのように鮮やかで華麗で淡々と捌かれている。とにかく全てのことが収まったら、誘導職員のゴーサインで電車は仕事に向けて出発する。
信号を誘導員が確認し、あとは手捌きでその勢いを把握する。知らず知らずと数珠のように列車が形成されてゆくが、広島ではコレが当たり前。神業のような何かを見た。
車庫内ではこうして灯りがそれぞれに照らされ、車両たちが今か今かと出庫の刻を待っている。その中にはあの、「京都市電」の姿もあれば先ほどまで滞在していた福岡県は北九州交通の主役、「西鉄北九州線」の電車もいる。
今では完全に慣れっこな風景だが、それぞれの生い立ちなどに触れていくとこう、西鉄と京都市電が共に同じ職場に在籍しているのは歯がゆい気分になるというか少し背伸びしたような気持ちになる。
そんな京都市電の出庫も今から楽しみだ。
(ココは順不同で掲載)千田車庫最大の驚き、というのはこのタイトルに挙げた「収容能力」ではないだろうか。
九州滞在中にも少し門前を見かけた浦上車庫も低床車両と従来型の路面電車を交ぜて収納する環境に驚いたが、この千田車庫は何しろ事情が異なる。
何故か?
5連節の車体を持つ路面電車を収納しているのだ。しかも、従来型の単車たちと同じ環境で。
誘導員さんの素晴らしいリードには勿論驚くところが存在したが、それ以上に驚愕だったのがこの「5連節車体が通常の環境と同じような場所にいる」という事実だった。
この収容能力は本当に「誇って…」という話ではなく、広島電鉄の車庫管理・車両収容がトップクラスだという事実を証明する何よりの証拠だ。
本当に誇れる場面である。
京都戦士の登場
広島電鉄といえば、やはり京都・大阪・神戸の各市電が現役を張っている事実だろう。特に京都市電は土曜休日もその存在を見せており、京都市民としては「いつでも出会える」懐かしさと気軽さを兼ね備えた憧れの電車である。
そんな京都市電が隊列を組み、千田車庫門前で誘導員の指示を待つ。最早この儀式は九条や錦林よりもコチラでの歴の方が長くなっているのではないだろうか。もうそんな風にすら感じてしまう。
発車。1日の仕事が始まる瞬間だ。この出庫では回送運用で送り込まれ、その後に営業でローテーションに乗るといった感じなのだろうか。
京都の図書館や地域スペースでは、京都市電に関する本が幾つも存在している。そして、かく言う自分も小学2年生の時期には教室に置かれていた京都市電の本を何回も読んだ。
そんな京都市電が、朝1日の仕事へ向かって歩みを踏み出してゆく。姿はしかもそのまま。ビューゲルは今やシングルアームに換装され、往時の姿を偲ぶには少し離れてしまったがコレはコレで
「まだ現役」
を貫く元気な証拠だ。
朝に焼けた街へ繰り出してゆく。
休日は人が少ない。平日の交通が行き交う時間と異なり、休日の朝焼けは何か安息を感じながらゆったりと仕事が出来る軽やかな1歩なのだろうか。
京都での活躍写真と今の広島で転勤して生きる姿の写真を見ると、細部の細かな違いに圧倒されるのだがそれは何か「この電車の洗礼」や「この電車への適応儀礼」のように感じ、我々には先述したが「もう少しの長生き」を伝えているようにも思う。
車両の姿をこうして撮影してみる事にした。
既に朝日は高々と上っており、陽も充分だった。逆光になってはしまったが、実に良い写真になっていると思う。
回送幕ではなく「宇品」としっかり系統を表示しているのがまた素晴らしい。賛否を呼んでいるシングルアームパンタグラフがそこまで映っていない、のも個人的には良い点だろうか。
京都市電たちはこの辺りの撮影が中心だった。
急展開
路面電車ファンなら。トラムに魅せられてカメラを握った者なら。ここでの朝飯は必然や通過儀礼なのではないか。
そう。千田の松屋である。
結局探す場所もないし、気力もないしとここにした。今を思えば、ちょっとだけ場所を変えたかったがそれは別の話になる。
ここでは普段慣れない半熟生卵と山芋をご飯にかけて食した。
しかし、コレが後にとんでもない訪問客を胃の中に宿してしまう事になるのである。それはまた先にて。
この広島・千田車庫を離れる際に記しておこう。
今回は自分に缶コーヒーを手渡して温めてくれる自転車の住民がいた。
「キミ、どっから来た?」
こんな一言で始まり、話は広島の交通や通勤事情。そして自分の将来へ向けた話など、大きなものへと飛躍していった。
「元々は大阪から来たっていう兄ちゃんに渡したかったんだがよォ、もう行っちまったみたいだな」
「良いんですかね、俺が」
「良いさ、こんなのは順番だ、そいつら明日が本番だとか言って、神戸の電車撮影する下見に来てたってよォ、朝の暗いうちからねぇ…」
どうやら別の撮影者が千田車庫付近に居たらしい。
撮影訪問は休日だった為、成果はそこまで大きくなかったが自分と近い場所を生きていたかもしれない京都の戦士と交れた事は大きな成果だった。
「頑張れよぉ、就職できるようにな」
そんな言葉を背に受けて自分は出庫の撮影から去った。
復興と希望
広電といえば、やはりこの話をしておくべきではないだろうか。
それがこの「被曝との歴史」だ。
広電は広島市内を走行している…のは路線図を見てもよく分かる事のように思う。そんな広電だが、太平洋戦争後半の1945年8月6日。アメリカから投下された原子爆弾によって街は壊滅的な被害を受けた。
広島市内にはこうして、原爆との被害を現世に語り継ぐ「被爆遺産」が街中に幾つもあるが、そんな「被爆遺産」の代表的なものの中にこの「広電本社」がある。
この広電本社は爆心地から約2キロという近さだ。建造物としては当然、その形状を留めるに至らない姿にまで破壊されてしまった。
しかし、広電は不屈の魂を発揮して這い上がる。なんと、8月6日の被爆から3日後に電車の運転を再開させたのだった。
そんな不屈の魂の語り部…となっているのはこの650形「被爆電車」として有名だが、この電車も同じく「爆心地から2キロ近い距離で被爆」した。窓ガラスや前照灯などを失ったが、被爆被害でも廃車にならず半年で復帰。屈強な心を見せたのだ。
(650形としての形式情報)そんな被爆電車が街中に繰り出し、路面電車を戦災からすぐに立ち上がらせた歴史をこうして今もなお語る事が出来ているのは、
「広島が平和であり世界に高らかと復興を見せつけた象徴」
ではないだろうか。
この戦災復旧の栄光はいつまでも語られてほしい大偉業である。過去に撮影した650形の写真も交えて記していく事にした。
市内へ繰り出す
いよいよ交通の息も町に流れ出した…という事で、ここ広電本社前から旅を始めていこう。
最初の目的地はJRと接続する場所がイイとの考えから「己斐」こと西広島に向かった。
乗車するのは広島の単車軽快スタイルで登場した700形である。今となって見れば実にスタイリッシュに磨き上げられたデザインをしていると感じる次第だ。撮影中は割とクジ的な意味でハズレだと思った時期があったが。
原爆ドームを望んで電車は進む。
原爆ドームがこうして広島の街中に残り、今は穏やかにその被害を残している。
かつては広島産業奨励会館…だと教科書で小学生ながら学んだような気がする。その時に原爆ドームの本来の姿をはじめて見たのだが、実にモダンというかレトロな建造物だったと教科書の写真を記憶している。
戦争の惨禍に巻かれた建物がこうしてそのままの姿で残存…という話自体が凄いと感じるが、広島の歴史を語ってゆくには大事な遺産でありまた、平和の象徴。そしてこの町がいつまでもこの戦災を忘れずに前を向いて歩いてゆく…と様々な事を刻んだ尊いモニュメントだと考えると、気持ちが熱くなる。
そして近くにはかつて、「広島市民球場」があったという。小さい頃にTVで別れを惜しむ番組を見ていた記憶があったが、現在の野球解説やYouTubeなどでの活躍が主な元・千葉ロッテの里崎智也さんによれば「あんな球場でよく試合ができた」というレベルには狭かったのだという。
すぐに長打を出してしまえば本塁打に変わるし、リードに関しては本当に気を遣った…というエピソードが今なおこうして残っているという事は、本当に限界ギリギリの中で出来ていたのかもしれない。後に登場する「マツダスタジアム」にその後は移管され、広島東洋カープの試合は断然広々、広大な敷地でゲームが出来るようになった。
グングンと電車は走っていく。幾多のカーブを曲がって、狭い道に入ったと思えば乗降客も少なくなり、いつしかこうして車内の記録もしやすくなった。車掌乗務の電車なら気が引けるが、今ならやってしまえと朝日が差し込む車内を映してみた。
電車は急に、「何もない」場所で停車した。
「どうした?」
と入口に目をやると、そこに拡がっていたのは電停である。「小網町」という電停のようだが、京都市民として生活していると「山ノ内」ですら
危険と思っていた概念が大きく吹き飛んでしまう。
「何故俺は山ノ内を危険と思っていたんだ_?」
と今では何か笑い飛ばす気持ちになっており、この路側帯に引かれたスペースを主張する乗降場所を今では非常に興味深い案件として捉えている。
また必ず訪問しなくては、と思うと同時にこの電停での客扱いを見てみたいという恐怖が何か勝った。
先日…というか少し前に京都観光へ意気揚々と来てくださった方へ、京都は嵐電・山ノ内電停の写真を見せた。
「段差じゃないですかぁぁ!」
と驚かれたが、こんなもの比ではなかった。
全国探せばこんな危険なモノも見つかるんだと思ったが、一体どのようにして共存をしているのか深い謎が出来上がった。
電車は西広島を目指して進む。
痛快・広島の鉄道線
無事に西広島に到着した。この駅では掃除に広電では「己斐」という副駅名のようなモノが使われている。
自分が乗車したのは軌道線内完結の電車だったが、ここからは「宮島線」という別の路線が始まり、この「宮島線」と「軌道線」を直通する列車も1日運転されている。
写真は西広島駅の宮島方から撮影した記録であり、この駅から宮島に向かう鉄道線を記録したものだ。
先ほどの画像と異なり、線路がバラスト敷きの鉄道線になっているのがお分かりいただけたろうか。
写真は先ほどの電車が宮島線から軌道線に入線していく様子だ。
このようにして宮島線からの広島駅方面直通も運転されており、西広島の駅は非常に特殊な構造をしている。
道路に繰り出した電車は早速車と殆ど同じような信号に従い、広島の交通に溶け込んでいくのだった。
画像は一気に飛んでココは草津付近の車庫。
確か、直通色が居ると分かって撮影した記録だった。
そしてここまでの移動で大きな災難に襲いかかる。
家庭事情で川崎に移動した母と西広島駅で連絡を取り合った後、急に原因不明の腹痛に襲われた。その後、30分以上トイレに立て篭もり。
結局体から水分しか抜けない状況がその後かなり続いたが、この時点での原因は未だに分からなかった。そんな中、顔を青くしつつも肉体を引きずりつつも「新井口」駅まで先回り。結局手持ちの金銭もあまりなかった為、このまま宮島線訪問を続行する事にした。
その折の過程は本当に立ち直れず、記録できるような状態ではなかった為写真が絶望的にない。繋ぎとして車庫から見えた直通色を掲載しておくが、今の自分はそれどころではなかった。
確か、草津病院という施設が近くにあった為にこんな写真が残ったのだと思う。てかそう。
この時も胃腸に変な物を宿した感覚が拭えずにずっと塞ぎ込んでおり、その塞ぎ込んだ過程にて撮影してしまった記録だ。
変に心配されたくないし…という感情と裏腹に、そんな平静を装う為に必死な自分は結局撮影で誤魔化した。なんとも当たりが悪い。
結局、草津病院まで駆け込んでトイレで水分を吐き出して再び歩き出す。なんとかマシな状態に戻したが、結局落ち着く事はなく「コレでマシな状態」に落とし込むのが関の山だった。
鉄道線と軌道線の境い目…というより、非常に低床車の段差をうまく使いこなしている。
「こんな活用があったのか」
と驚くくらいで、逆に鉄道線ホームなのにフラットな構造に自分は何かと衝撃を受けた。
そして本当に地方鉄道としてはこの広電「宮島線」だけ見ればイカしているというより「男前」な鉄道な気がする。低床電車がそのまま鉄道線に殴り込み、そして道路に入って市内直通するというこれ程までにイケメンな設定を持った鉄道は惚れる他ないだろう。
そして今更写真なくしての話だが、駅名標が「神鉄」っぽいのが非常に気になった。一体ココはどこだというのだ。
結局、撮影条件は好条件だったのでココも伏せがちに撮影して難を逃れる。標識が自分の構えたアングルの近くにはあったので交わしつつになったが、それでも低床型が鉄道線に居る姿は本当に違和感を演出させてくれる。
まずは手堅く、「グリーンライナー」をゲットした。
胃腸の異物感を覚えながら立ち上がり、もう1枚。広電の低床車といえば、な「グリーンムーバー」を抑えた。
この電車こそ、個人的な広島の景観を変え路面電車の常識を変えた低床電車だと思っている。その姿は5連接という他都市にはあまりない姿で注目され、ドイツで製造された。
広電では利用効率が少し良くなく普及は停滞…してしまったものの、それでもこの電車が国内の路面電車開発に寄与した功績は大きい。
幼い頃から図鑑でも見ていた世代の電車だけに、こうして良い条件で記録出来たのは自分にとって良い成果だった。
そのまま「宮島線」に乗車してしまう。車庫横を通過した。車庫内には「軽快連接車」こと3700形が鎮座し、その脇をグリーンムーバーが固めている。
「今はもう安定供給の国産時代か…」
と妙に感慨深くなったが、車庫内には3100形なども残っており、さながら連接車両の寝床といった風格だった。
しかし宮島線は非常に混んでいる。車内は地元住民と宮島観光に向かう立ち客が混ざっている状況で、この路線の生活重要性が大いに分かった。
「宮島線はね、低床版の石坂線なのよ」
という言葉を実は事前に聞いていた。
その言葉が示すように、宮島線の速度は路面電車を超越した勢いで走行している。
時にはこの電車が郊外電車か何かにすり替わってしまったのかと思う勢いの走りさえ見せ、沿線の空気も路面電車が作っていた都会的だった空気から変貌し、俊敏さと高加減速が見せつけるトンデモない走りを見せていた。車窓もそれに従い、住宅の真ん中に架線柱。そして鉄橋などが多く見え、まさに「地方の私鉄」さながらである。
乗車したのは「グリーンムーバーAPEX」という最新式の低床5〜6連節電車だったのだが、それでも
「同じ電車の走行なのか?」
と目と耳を疑う程の走り方だった。
コレを同じ電車で成し遂げてしまう事、そして軌道と鉄道を同じ電車と同じ床高さにして直通している事の恐ろしさを改めてして痛感するのだった。
電車は途中、慣れぬ駅に到着した。
どうやら臨時駅らしく、協定開催時にしか停車しない「宮島競艇場」駅というらしい。
この駅の存在は停車してから知った。
実は後尾車両に乗車した時に幕コマを見たのだが、その際に「競艇貸切」との幕を見た事があった。その幕はきっとこの際に使用するのだと謎が解け、少々安堵の気持ちになった。
結局、この駅からは誰も乗り降りはなく乗客の増減はなかった。満員の観光客を乗せ、電車は残り少ない宮島口までの距離を往く。
ユートピアだぜ!!
低床電車のトンデモ走行に感動していると、行き着く暇なく「広電宮島口」に到着した。
昨年になって駅舎が改築され、鉄道線に乗り入れるヨーロピアンな電車たちにはよく似合う海外風なスタイルに仕上がっている。この駅の姿がまだ馴染んでいないことを示すかのように訪れた観光客の一部も
「えぇ、こんな綺麗になったんだ…」
「こんな駅じゃなかったよねぇ」
と呟く姿を見かけ、リフレッシュした駅舎の効果を垣間見た。
駅舎改築の本名であったグリーンムーバーとの共演撮影はお預けになった。いや、というかこんな腹痛状況じゃ撮影なんか出来ない。
少し反対に回り込んで線路からの撮影を行った。
平成っぽい顔…というか、それこそVVVF黎明期の電車とこの駅の雰囲気は釣り合わない気がするけれど、今は記録出来ている状態の自分を褒めていたい。
結局、グリーンムーバー関係の電車は全然来なかった。快晴の宮島口には今、連接車の独特なジョインントサウンドが響いている。普段は聞かない音だったので、やはりこうして耳に入れてしまうだけでも聴覚が刺激され反応してしまう。勿論、胃炎の痛みには勝てないが。
宮島口付近では臨時駅の近くにあった「競艇場」の競艇をぼんやり眺める事ができる。
胃炎の痛みというか、腹部に刺さった異物的な痛みの休憩がてらにボートレースを見て帰る事にした。
ブンブンブンブンとボートが唸って走る。自分にはよく分からないが、コレが世の爺さんやオッサンを熱狂させる「モンキーターン」と言うやつか。知らないけれど、自分の男児としての心に火がついた。揺さぶられるものがある。
結局自分が見ていたのはレースの途中だったらしく、このまま2〜3周してレースは終了した。
自分も生涯の中で競艇とか競馬は…と思う節があるのだが、何にせ人生の余暇として留められるかは不安である。
そういえば、「競艇」といえば忘れてはならない関西不滅の企画があった。ABCの人気TV番組「相席食堂」にて峰竜太が峰竜太に賭けるという企画があり、その結果番組予算+峰のポケットマネーでとんでもない金額の払戻金を獲得…という爆笑企画があったのを宮島口で思い出した。
しかし実際みると面白そうだ。見る分には。
宮島口駅の留置線に、自分の琴線に刺さる電車が停車していたので撮影をしておいた。心なしか異物の痛みが飛んだような気がする。(ここからはそうします)
この電車は広島の連接電車の走り…であり、軽快電車世代の走りとも言える存在のようだ。
実際に稼働している日数は少ないようだが、自分も実物に遭遇する事自体は初かもしれない。
しかしながら良い形状をしている。4灯のライトに角張った車体。そして前面を大きく占拠した1枚ガラス。非常に刺さるスタイルだ。
当初は少数導入だったこの軽快連接電車も、今ではこのように勢力を広げている。是非とも1度は走る姿を見たいと感じたものだ。
車両を遠景から眺めるとこのようになる。
実に連接路面電車初期の設計、でもあり。軽快電車としての設計も踏襲しているハーフなスタイルをしている。
イイトコを併せ持った電車だと感じた。
っだがしかしだ。こんな電車にも容赦ない感じで広告を貼り付けてくる。このセンスがまたニクい。広告が装着…という事は稼働機会はそれなりにある方なのだろうか?帰ってから考察が深まった。
踏切を渡って、反対側から撮影した。
軽快電車の見本市、のようにになっているようなポイントから宮島競艇場の方を望み、そして営業の電車が「広電宮島口」に入線する様子である。
この様子も、個人的には進化が感じ取れて面白いと思ったポイントだった。駅周辺の線路はバラストも未だ綺麗になっていて、駅としての機能が移管されてそれほど経過していないように感じ取れる。年季が入るとどんな味が出てくるか楽しみだ。
腹部の異物は…との御心配を他所に、宮島口出発前には「もみじ饅頭」を食して出発した。
この周辺…というか広島の近辺はもみじ饅頭がスナック感覚の値段で買えるので非常に嬉しい。自分にとってもサッと買ってサッと旅情を味わい、サッと満喫できてサッと腹の中が快適になる。
しかしこの時には
「胃の中が固まって腹が痛くなっているから、何かを食べて消化器官を動かすべきだ」
と考えてもみじ饅頭に手を出していた自分。しかし、関西に引き上げるまで正体は何も分からないのであった。
もみじ饅頭は抹茶とチョコだったと思う。抹茶には栗の欠片のようなもの混ざっていて、食感のアクセントになっていた。
結局この2個の饅頭を老人の休憩のように座りながら食し、青ざめてそのまま遠い目を憂いだ自分。本当にどうしようもなかった。
リセット広島
バスでの到着以来、何時間ぶりになるのか。自分は広島駅に戻っていた。
実は広島駅に戻るまでの道中にオリックスの衣服を着た男性と話をする機会があり、広島駅までファン談義をした。
昨日先発の山岡が好投した事、球団のイケメン売りは…だったり、今から帰る場所は何処なのか、と多くのことを交わしたが、やはり優勝の喜びを分かち合えたのは大きかった。この日もオリックスはマツダで広島との試合を控えており、その結果を楽しみにして互いの道に分かれていった。
そんな中で広島駅。個人的には一旦のセーブを付けたい気持ちが混ざっていた。ココから紙屋町付近まで再び市内線の広電に乗車する。
写真は先ほどの宮島線初乗車を支えた「グリーンムーバーAPEX」だ。実に尖った顔をしている。
旅路の軍資金を引き出した先で、京都市電に再会した。
しかしこう、近代的なビル群に囲まれる京都市電なんて模型の世界でしか自分は遭遇しないと思っていた。本当に京都市電現役の頃の市民にこの現状を伝えてみると、この現状を信じてもらえるのだろうか。
それにしても本当にこの姿は現役さながらである。京都市電に電気が通い、現役と大差ない時代を過ごしている。それだけでも本当に嬉しいし、この広島の街を通過点に選択して良かったとさえ感じられるのだ。
京都市電の話題…と間話にして現在の京都の都市交通はこうして、バスによって支えられている。市内をいくつか探せば市電保存車を含めて京都に市電が生きていた遺構は多いものの、現役の電車に会えるという喜び以上に大きなものはない。是非とも広島に来訪して体感していただきたい次第だ。
そのままアーケードを進み、紙屋町方面…へと向かう。腹に異物が据わっていはしたものの、
「広島らしいもん食いたいなァ」
と渇望して回る何かは結局避けては通れなかった。結局、裏路地であり付いたものがコレになる。
お好み焼きだ。広島のお好み焼きにはキャベツがギッシリ入っていて、旅先での野菜不足に困る自分でも簡単に摂取出来る魅力が詰まっている。
この美味さを一口身体に入れて仕舞えば、もうどうにでも良くなってしまった。初来店の店だったので「基本の味・基本のモノ」をアレンジせずに食した。本当に美味しい。
また懲りずに何回でも食べてみたいと思う。会計を済ませて店を離れた。
カープと古書店
紙屋町の裏路地を歩いていると、居住まいの良さげな書店を見つけた。
どうやら古本屋…だけではなくカープのグッズも扱っているらしい。潜入していこうではないか。路地に向いている古本の棚の中から何冊か探し、その中から「いかりや長介」氏のエッセイを探し出す。その上で店の中に入って行った。
店内は真っ赤に染まっていた。これぞ広島の光景…カープの真骨頂というか広島人鼓動、熱き魂を象徴していると思う。体調的にも時間的にも余裕はなかったが、コレにはついつい見入ってしまうものがあった。店内にはカープ本のコーナーもあり、もう1冊はその中から選択して店を出る事にした。
様々な話をして盛り上がっていると、こんな話題に。
「今、監督が新井さんになりましたよね。新井さんのはありますか?」
「新井さんね…ありますよ。」
新井さんグッズがキッチリとそこにあった。堂々の鎮座?とはいかないが専用のポップまで設けられ、広島の新たなキャラクターになるべく準備が進んでいた。
この店の人々に話を聞いていて嬉しかった…というか気分が高鳴ったのは、カープと店が共に在るという事実だった。
「広島が連覇して優勝した時には店の前で樽酒を振る舞って、皆んなで大盛り上がりしたんです」
本当にこの球団の心は、街と共にあり。そして苦しみも喜びも共に背負って戦う、もう一つのナインのように感じた。自分にとってはファンという認識より、「もう1つのチームメイト」なイメージとして今は残っている。
この記事を書いている時の状況ではあるが、広島・新井政権の船出は非常に塩っぱいモノになっていた。開幕の試合は敵地・神宮球場で東京ヤクルトに2連敗し手痛い状態から始まっている。
歓喜の渦を知っている広島の男…が何処までリードを広げられるか、個人的には本当に見ものだ。
そして店を出て行く時には
「優勝したら必ず店に立ち寄ります」
と伝えた。そして現在、Twitterアカウントにて
「優勝の折にはまた来広して下さいね。お待ちしております!」
との返事も頂いた。広島希望の星として紙屋町でいつまでも赤い光を放ってほしい。
再び腹部の異物を気にして、町を歩き出す。広島の路面電車の車種は本当に多彩で目移りしそうになるが、体調不良で食った時間の皺寄せはどうにもならなかった。
このまま目的新白島に向かう事にした。広電ではなく、地下に潜って「アストラムライン」という地下鉄のような新交通システムに乗車する。
日本の地下鉄協会の中では地下鉄に分岐されているようで、コレを鉄オタの前でカウントすると
「広島には地下鉄が存在する」
となるのだろうが、自分にはどうも駅に向かっている最中だけが地下鉄のように感じた。この先はどうもそんな感じではないらしい。
広島の都市交通の醍醐味をこうして地上・地下にて感じる事になり、個人的には何か交通見聞に出たような気持ちになっているが今は京都が遠い。恋しい。
地下鉄ですよね?はいそうです。
県庁前という駅に到着した。ココから「アストラムライン」に乗車する。
「この路線高いねんな」
などと批評も聞いていたので、そういった観点では自分も耳にした事のある鉄道だった。
しかし地下にて新交通システムを待つという既視感、そして地下を走るゴムタイヤ鉄道を地下鉄と呼ぶこの痒さを何処かで耳にしたと思ったら大阪の「ニュートラム」だった。個人的にはアレを「メトロ」扱いされているのもなんとなく気が良くなく、別ネットワークに分類してほしいと感じているものだ。
とそれは置いておき。この車両に乗車した。アストラムラインの新型である。
これまでは従来型の角形ライト車両が走っていたが、近代的な新型車にその姿を置き換えている。スケールは小さいままだが、近代的でスタイリッシュな車両だ。
乗車する際にはこんな環境から乗車する。非常に見た感じの空間は「ヨーロッパの地下鉄」といった空気も感じられるかもしれない。
そしてこの「フルスクリーン」ホームドアの感触はまさしく「京都市営地下鉄・東西線」から感じ取れるものだった。フルスクリーンのドアという形態は存在していても、実際にこうして目にする機会はそこまでないのかもしれない。
個人的に謎に包まれていた、「アストラムライン」の路線図だ。見た目は非常に「?」という形状をしていて、シルエットだけで擬えれば「疑問形」のような形状をしている。
この路線の中には高校野球で有名な広陵高校の最寄駅があり、オリックスファンとしては1番打者の定番選手・福田周平選手を思い出す。連覇にも貢献し、現在のチームの走攻守には欠かせない選手だ。
そのまま新白島にて駅を降りた。ココからJRに乗り換えて岡山方面を本格的に目指してゆく事になる。
そして、アストラムラインはこの駅から地上に出て、地下鉄…というよりは「新交通システム」さながらの空気感を出して走ってゆくのだった。
しかしこの駅を降りた感覚だが、非常に駅として設計が日本離れしている。こんな構造の建造物が広島に…⁉︎という衝撃も確かだが、何よりも美術館ではなくコレが公共施設・駅としての機能を見せているのだから非常にすごい事だと思う。
JR新白島の構造に戸惑いながらも、なんとかしてこの広島市内から離脱しようと試みた。
取り敢えず千田の松屋で拾った胃腸菌とかいう異物君、しばらくよろしく。
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