問いから始まる学び▶︎▶︎▶︎ “自分への冒険の旅” Part.1
2022年9月よりオランダデルフトにてAMI(国際モンテッソーリ協会)6-12歳のモンテッソーリ教育免許取得に向けて、世界各地から集まった仲間と共に学んでいる中で、考えた学びの本質、日本と各国の教育の違い、リアルな課題について考えることが多くありました。
モンテッソーリの小学校課程で見えてきた世界の広さ
モンテッソーリの小学生課程を学び始めてみると、自分が受けてきた日本の学校教育とは「学び」の捉え方が全く異なり、驚きの連続、感動の毎日です。
自分が見えていた世界は、広大な宇宙の歴史のほんの一部に過ぎず、知らない世界がまだまだたくさんありました。「この内容は小学生の時に習ったかな?」と幼少期の学校生活を思い出しながら、子どもが一から新しいことを学んでいくような感覚で、「この先にはどんな世界が待っているんだろう」と知的好奇心に駆られていきます。
私たちが受けてきた学校教育を思い浮かべると、学年ごとに配布される各教科の教科書で時間割の通りに進められる授業、単元ごとに行われるテスト、学期末には五段階評価の通知表。世代を超えて、共通する部分が多いのではないでしょうか。
ほとんどの方が、この日本の学習指導要領に沿った学びを小学校1年生から高校卒業まで受けてきたと思います。
だからこそ、皆さんの中に、
「モンテッソーリ教育の小学校に通ったら、日本の学習指導要領を網羅できるの?」という疑問が沸き起こるのも当然だと思います。
結論から述べると、6年間を通して小学生の学習指導要領は網羅できる、もしくはそれ以上の学びを得ている可能性もあります。
オランダで 1年間トレーニングを受けている間、 世界各国から集まったクラスメイトと共にモンテッソーリ教育の世界に触れていく中で、次の疑問が頭に浮かびました。
「私はなぜ、何のために勉強していたんだろうか。」
モンテッソーリの小学生課程の学びの大枠:
「勉強すること」≠「学ぶこと」 学習指導要領における学習は?
一般的に、「学習」には「学ぶこと」と「勉強すること」の二種類あると言われています。
「学習」という言葉から連想されるのは、「公式や定理は覚えるもの」「テストで出るから」「暗記しなければいけない」「間違えてはいけない」等々…【ザ・努力を要する勉強】をイメージする方も多いかもしれません。
私自身、一度見たら全部覚えられる訳ではなかったので、モンテッソーリのディプロマの勉強中ももちろん、学生の頃から「勉強は努力の先に実を結ぶ」という認識がありました。
日本だけではないですがが、学校教育は、教科書に基づいて覚えなければいけない範囲が学年ごとに詳細に決まっていて、先生達は、子ども達に各教科、単元ごとの内容を身につけさせることを求められているのが現状です。
小学校に進学した途端、既存の知識を効果的に頭に入れ、テストで成績を評価される=いわゆる学校教育が始まり、学年を追うごとにその量は増えていくばかり。
その結果として、勉強に対するマイナスイメージが付いたり、学年が上がるごとに勉強が嫌いになっていったりする子どもたちが増えていってしまうのです。
そして、この功罪は大人になっても続きます。日本では、社会人になって大学に戻る人は欧米に比べて少なく、新しい学びを始める心理的ハードルが高いなど、学び続けること自体を卒業する人や、仕事でも「正解を与えられないとできない」大人が多いように感じます。
学習は辛いこと?耐えること?つまらない?
しかし、本当に学習は辛いこと、耐えること、つまらないこと?でしょうか。
思い出してみると、小さい頃は「あれはなーに?」「どうして?」「なんで?」とたくさん疑問が沸き起こり、親や周りの大人に質問したことがあると思います。
オランダのモンテッソーリ園に通う8歳になったばかりのMRRは「ミツバチがどうやって蜂蜜を作るのかずーーっと知りたかったの」「電車ってどうやって動くの?」「私、何でも知りたい!どうしてこんなに何でも知りたいんだろう!!」とトラムを待つ間に目を輝かせて言っていました。
子育て経験のある皆さんにとって誰しも、一度は子どもから質問攻めされた経験があると思います。幼い頃の子どもたちの知識欲は限りを知りません。私たち人間は本来、「知的好奇心」が旺盛な生き物なのです。
日常に溢れている様々な疑問について、知りたい、学びたいという欲は、人の根幹にあります。
知らないよりも知っている方が面白く、自分が知ったことを誰かに説明できると、そのことがうれしく、心地いい!という知的好奇心こそが、人間だけが文明を築き上げてきた理由でははないでしょうか。
子どもにとっても、そして大人にとっても「学ぶこと」はワクワクするものでありたい!それはモンテッソーリ教育の中で最も目指しているものです。