-シニアから前を向いて生きてゆく-
【戸惑っていませんか?】
55歳を過ぎて定年が目の前に見え始めた時、戸惑いを感じませんでしたか。人生の終わりを意識するには早すぎるが、今更何を目的に日々を過ごし何に楽しみを見出せばよいのか。たとえ趣味を見出したとしてもそれは何かに繋がるものなのか刹那的な快楽なのか。
そんな私たちの年代に共通するもやっとした感覚を共有し今からでも前を向いて進んで行きませんか?明快な答えは見つからないかもしれませんが少し立ち止まって一緒に考える時間を共有しませんか。
振り返ってみると時間のたつのは早いものです。この50数年で私たちはいったいどれほど成長したのでしょうか。知識は確実に増え、できる事も 子供時時代から比較すれば驚くほど多くなっています。では、精神面では どうですか?私自身自分の精神年齢を考えると小学校時代から、言い換えると過去の記憶がある程度鮮明に残っている時代から比較してもさほど変わっていない気がします。
大人になれば様々な困難があっても強い精神力で乗り越えられる。嫌なことなど無理に我慢しなくても耐えられる。そんなふうに想像していました。皆さんはいかがでしょうか。
ところが実際、シニアといわれる年齢になっても、なんと自身の精神の 幼いことか。外見は子供のころに目にしたシニアそのままになっているにも関わらず、内面は想像もしなかった状態で今を生きています。嫌なことからは極力逃げようとし、楽な方、楽な方へと流れようとします。会社や社会では責任に押しつぶされそうになり、挙句の果てには精神を病んだりもしています。子供のころ精神を病むとは全く違ったカテゴリーの人間になることを意味していました。今、精神を病むことはある意味特別なことではなくなっています。そうです、我々は昔思い描いたかっこよく強い大人にはなれず今のシニアの時代を迎えてしまいました。アダルトチルドレンという表現が一時よく使われましたが違った意味で多かれ少なかれ私たちシニアは シニアチルドレンといえるのかもしれません。そんな負の面ばかりを見ていてもそれこそ前には進めません。少し角度をかえて考えてみましょう。 精神面がまだチルドレンということはそれだけ若いということにはならないでしょうか。外見はおじさん、おばさんでも精神は子供のころの若さを持っている。そう考えると少し明るくなる気がします。この子供のままの精神を活用してこれからの年月を生きてゆく工夫をしたいと私は考えました。 ただ考えるだけでは先には進めませんね。ある意味私が実験台になってこのシニアの時代を前向きに生きるチャレンジをしてゆきたいと思います。そんな私のチャレンジを疑似体験として皆様と共有できればうれしいです。 先にお断りをしておきますが私は特別な人間ではありません。同年代の方々と比べると社会的地位も不安定ですし、収入も低いです。
【自己紹介(自分語り)】
人の生い立ちなど自分語りを聞かされることはそれほど楽しいことではない。できればスルーしたいことでしょう。ただし、この記事を書いている私のことをある程度知っていただかないと私の話のベースというかスタート 地点がわからず焦点がぼやけてしまう恐れがあります。望まれていないことは十分承知の上で少しだけ自分について語らせていただきます。多少ぼやかして表現はしておりますが嘘は言わないとお約束します。
東京で生まれ大学卒業まで東京で育ちました。今にして思うと自意識が 過剰なかわいげのない子供だったと思います。常に大人たちの顔色や反応を伺い大人受けのする行動を選択してきました。そのせいか小、中学時代は 成績は 良かった記憶があります。大人たち特に母親に評価されるためにひたすら勉強をしていました。くだらない子供時代ですね。 そんな勉強というタガが外れたのは高校に入学してからでした。 当時は全国的にも東大合格者を多数輩出する高校に入って母親からはもう 勉強については大丈夫だろうという免罪符をもらいました。 その免罪符のおかげで高校時代は本当にすがすがしいほど勉強をしませんでした。恥ずかしい表現ですが青春というものを謳歌していたのでしょう。 恋愛、部活、飲酒、たばこ・・・すべて堪能しその結果親が期待した 一流国立大学には合格せず都内の1.5流の私立大学に入学しました。 正直に言えばその時に芽生えた”学歴コンプレックス”はいまだに根深く自分の中に残っています。かれこれ30年以上熟成させた、いや腐敗させたコンプレックスです。
このコンプレックスを少しでも軽減しようと就活のターゲットは企業の 知名度と東証一部上場であることに絞りました。今でもそうですが本当にやりたいことなど何もなかったのです。ある程度プライドを保持できるポジションさえ得られれば。今にして思えばこの腐敗したコンプレックスと陳腐なプライドがそのあとの人生を今の状態に導いたのでしょう。すべての出来事には理由があると誰かも言ってましたね。 一部上場の商社に入社した私は大阪配属になりました。当時、東京採用は大阪配属、大阪採用は東京配属のような風潮があった気がします。 今では何の違和感もありませんでしたが、当時の私は大阪のすべてが嫌いでした言葉、人との距離感などなど。ちなみに30年以上大阪で暮らしているわけですがいまだに私のイントネーションは大阪弁のそれとは違うようです。気にした時期も確かにありましたが30年たっても治らないというのはある 意味、英語を習得することよりも私にとっては難しいことなのでしょう。 偽の関西弁を普通に使って日々生活をしております。私の関西弁については関西人は違和感を多少感じはするもののあからさまに拒否反応を示すことは有りません。偽物でも30年以上たてば本物に近い偽物と認めてもらえるのでしょうね。 33歳の時子供が生まれました。ちなみに妻も同じ歳です。男性の一部は理解してくださるかもしれませんが、生まれたての我が子に対しかわいいという感情は正直湧いてきませんでした。何か重いものを急にどこからかパスされたどうしたらよいかわからない、それが当時の正直な気持ちです。 そんな私が子供のためにと思って選択したのが転職で年収を上げる事でした。上場企業に勤め年齢も比較的若かったせいか転職先はすぐに決まりました。知名度は落ちますが年収は倍ほどになり家族に対して少しは貢献できた気がしました。 転職が決まってある先輩に言われたことがあります。 「転職は転落だよ」と。当時は全く気にも留めませんでしたし、それどころかそんな先輩を軽蔑すらしました。でも、今PCに向かって文字を打ち込んでいる自分に改めて言いたいです。
「転職は転落だよ」
それなりに苦労はしましたが半年ほどで新しい職場にも慣れ、環境が適していたのか予算も余裕でクリアし前途は明るく開けている気がしました。 そんな矢先、大きな転機が訪れました。取引先からスカウトされたのです。それも超が付くほどの大手企業です。 私の腐敗したコンプレックスはまだグズグズと心の中心部でくすぶっていました。この超一流企業に入れば腐敗したコンプレックスとも永遠にお別れできる。サラリーマン人生の上がりをここで迎えよう。私は饒舌になりました。大人になって初めて自信をもって自分語りをするようになりました。 俺は社会的に認められた。一流企業の社員になれた。 学歴のコンプレックスも払しょくできそうでした。人生の頂点と言ったら言い過ぎかもしれませんがそんな気持ちでいました。 ですが頂点を極めた後に待っているのは下降です。 ここから一気に私の仕事人生は下降し始めました。 差しさわりがあるので具体的な仕事内容は割愛させていただきますが超一流企業で待ち受けていたのは今でいうブラック企業の環境でした。入社して2週間を経過したくらいから終電で帰ることができなくなりました。毎晩タクシーでの帰宅です。それなりの給与をもらっていたのでそのくらいは何とでもなりました。ですが膨大な仕事を抱え先の見えないゴールを日々目指す。 職場の半数は鬱病になったらしいです。 最終的には私もその半数の仲間入りをし、1年持たずに退職することとなりました。退職後ですがボーナスが口座に振り込まれていました。それなりの金額です。罪滅ぼしの意味なのか、単純に私が在職時に利益に貢献できていたからなのかそれは分かりません。どうでもいい話ですね。
未だにですが、鬱病を発症して以来妻には苦労をかけ続けています。鬱病は今では広く認知されている病気ですが当時はそのようなこともなく妻も困惑したことでしょう。ネットでググると鬱の症状が出てくるのですが当時の私はそれらすべて当てはまっていました。ひどい時には2週間以上風呂に入らなかったこともありました。食事は1日1食、味は全く分かりませんでした。幸い妻が一般企業で営業職をしていたおかげで生活は何とか成り立っていました。ただ、社会に復帰する出口が全く見えなかった。朝が来ることが怖いとすら思いました。
私の鬱病体験(継続中)を語i活を立て直すべく職探しを始めました。
一流企業に在籍したということはある意味勲章であり、そこを1年たたずに退職したということは致命的な傷となっていました。
まず、書類選考の段階でほぼはねられます。書類が通過したとしても面接官に決まって質問されることは
「なぜ、そんな早くにその一流企業を辞めたのか」ということでした。鬱病を患ったことは恥ずかしいことだと考えていたのでそのことを伏せながら説明したのですがなんとも辻褄が合わないスッキリしない回答しかすることができませんでした。
書類は通らず、面接では同じ質問でつまずく、それの繰り返しです。最初はかなり落ち込みましたが徐々にそんな循環が馬鹿らしくなってきました。身体を壊したのは自分のせいか?自分に責任があるのか?
そんな考えにたどり着き就職を諦めました。
結果、個人事業主として独立する道を選んだのです。後に診断をされたのですが私は鬱病ではなく双極性障害つまりは躁鬱病でした。独立の道を選んだ時期も躁の時期だったのでしょう。
素晴らしいほどの行動力で昔のつてを頼りに商社の下請け業務のようなものからスタートしそれなりに収入も安定させることができました。最高月収では200万を超えていたと記憶しています。躁状態の人間に金を持たせるとろくなことは有りません。妻に断りなく夜中に家を出て飲み屋に繰り出し一晩に10万、20万と散在し飲酒運転で帰宅する日々も多々ありました。それでも仕事はそれなりに回っていたので何となく気分が良かった記憶があります。陳腐な表現ですが、そこら辺のサラリーマンに俺は勝っている。そんなくだらない自己顕示欲でした。
ちょうどそのころ仕事を通じて知り合った社長と共同で中国のビジネスを始めることになりました。その時も躁期だったのでしょう。その社長の所有していた休眠会社の株を買い取り株式会社の社長になったのです。社長になるのは存外簡単なものだなと勘違いをしていました。その社長の会社自体実は経営が苦しかったことも知りませんでした。当時その会社の経理の女性がそれとなくアドアヴィスをして下さったのですが躁期の私にはそれを真摯に聞く耳はなくただただ成功することしか頭にありませんでした。
その社長と話をして営業資金として銀行から2,000万の借り入れをすることになりました。正直に言えば私自身借り入れなどという発想は全くなかったのですが言われるがままに同意してしまった感じです。騙されたという言葉は使いたくありませんがもしかしたらそうなのかもしれませんね。
それから私は中国と日本を行き来する生活を始めます。ですが、思ったように契約は取れず経費がかさみ先行きがどんどん不透明になってきました。 北京に滞在している間に鬱期に突入しました。継続中の案件すらどうでもよくなり、北京の自室に布団をかぶってこもる日々が続きました。中国のスタッフは相当困惑していたでしょう。当時、中国に鬱病などという概念は有りませんでしたから。
部屋の荷物も半ばそのままにして日本に逃げ帰りました。帰ると同時に部屋に引きこもり、携帯のスイッチも切り外界との接触を一切遮断したのです。もちろん銀行から返済の催促が来ますが対応などできるはずもありません。パートナーである社長もこの件からは逃げまくっていたように思います。半年ほど引きこもりの生活が続く中で妻と話し合いました。
借金は返せない。その結論をもとに世帯主を妻に変えたり、持ち家の自分の権利を妻に移管したり、最終的には【自己破産】をしました。
弁護士費用の相場は分かりませんが、当時私の口座に残っていた30万程度で処理をしてもらった記憶があります。この一件以来、妻には頭が上がりません。自分の中で妻との間に上下関係ができてしまいました。いまだにそれは変わりません。
しばらく引きこもりの生活が続きます。この一件で完全に普通の会社には転職できないと諦めました。
【転換期】
会社勤めを諦めた私はバイトを探し始めました。そんな状況でも覚悟が決まっていませんでした。できるだけ楽な仕事をさがしバイトすら落ちまくっている状態です。そんな中で偶然拾ってくれたのが地元の学習塾でした。
子供はどちらかと言えば苦手です。勉強はそれなりにできましたがかなり忘れていました。でも、先生と呼ばれる職についてしまったのです。今度こそという気持ちは有ったのでしょうね。真面目に勉強に取り組み参考書などを購入し自分で勉強を始めました。躁鬱という気持ちの波から逃れるために勉強というものに縋りついたのかもしれません。勉強にはどんどんのめりこむ一方、教えている生徒たち(子供たち)に対しては愛情のようなものはほとんど湧いてきませんでした。ひどい言い方ですが自分がブラッシュアップした知識を披露する相手にしていたのかもしれません。とにかく必死に教えました。それも自分の存在意義のために。
その必死さが子供達には”熱心に教えてくれる先生”に映ったのかもしれません。私に対する親しみや信頼を口にしてくれる生徒も増えてきました。授業中にうまく説明できなかった数学の問題を、帰り道の途中で簡単な解法を思いつき道の途中で生徒のご自宅に電話したこともありました。躁期だったのでしょう。バイトは全く苦になりませんでした。そのバイトを通じて大学生の友人もできました。一緒に模試を作ったり、英文法の解説書を作ったり膨大な作業時間を要しましたが苦になるどころか気持ちは高揚していました。当時はLineはなかったのでメールを使って連絡を取り合いながら作業を一緒に進めました。野球好きの彼とWBCの決勝に夢中になりながら作業を 進めていたことは今でも鮮明に楽しかった思い出として残っています。その彼とは3年ほど親密にお付き合いをしておりましたが、彼の就職と結婚を機に今では年賀状だけのお付き合いとなっています。それもまた仕方のないことでしょう。濃密な付き合いは長くは続かないものですからね。
それなりに楽しみながらバイトをしておりましたが月収が5万ほどしかないのはさすがにまずいと思い再度就活にチャレンジしました。今回は学習塾に絞っての活動です。後から分かったことですが塾業界は給与も安く労働条件も劣悪なところが多いため人の流動性が極めて高い業界でした。
おかげさまですんなりと業界のそこそこ大手に就職が決まりました。久しぶりに気分が晴れ晴れしたことを覚えています。当時の私は塾業界に対する知識が乏しすぎました。塾=生徒を教えて給料をもらう 程度の感覚です。もちろん、生徒を教えるは重要な業務の一つではありますがそれ以上に大きく重要な業務は生徒の獲得、つまりは予算の達成でした。周りからは先生、先生と呼ばれますが結局のこところ店舗を任された営業職、店長と言った方が正しいかもしれません。この勘違いのおかげで入社当初はとても苦労しました。新規の生徒が入塾するどころか、着任早々退塾が続いたのです。その会社からは各営業(先生)に会社専用の携帯が渡されていましたが社長、部長から𠮟責の電話をもらったのは2度3度ではありませんでした。
どうしたら生徒が入ってくれるのだろう。必死で考え、アドバイスされた方法を愚直に実践し、教室の清掃に力を注ぎました。正解など全く分かりませんでしたが目の前のできる事をひたすら真面目に実践するだけでした。
きっかけが何だったのかは全く覚えておりません。徐々にではなくある時を境に入塾が一気に増えだしました。毎日のように体験授業が組まれ、日々本部に新規入塾の報告をするようになりました。人が人を呼ぶとはこのことなのでしょう。30数名で引き継いだ教室は一年もたたずに100名を超える教室へと成長を遂げていました。上層部の対応も絵にかいたような手のひら返しで、私は使えない親父から優秀な営業に格上げされたのです。これだけ貢献したのだからとボーナスに期待をしたのですがボーナスは支給されませんでした。教室の備品(コピー機、エアコン)が最新のものに取り換えられたくらいで個人への還元はまさにゼロでした。これも後で知ったのですが塾業界ではボーナスを出すところはほとんどなく出たとしても寸志程度のところが多いようでした。
不思議とボーナスのことは気になりませんでした。100名を超える生徒を抱える教室の教室長として自信が持てたからかもしれません。忙しさも増し、面倒な事務作業も増えましたが気分よく会社に通えていたと思います。その塾はアルバイトの講師が授業を担当するいわゆる個別塾でしたが私は積極的に自分でも授業を担当しました。生徒が増えるにつれて不思議なことに先生たちも明るくなり活気が出てきました。当時の講師とは2名ほどですが今でも関係は続いています。
この時期がサラリーマン第2紀の一つのピークだったと思います。
【妻の病】
現状の教室の実績が認められ2教室目の教室長も任されることになりました。新教室を現状の教室の近くに開校したのです。2教室を同時に運営する教室長は社内でも数名しかおらず、やっとここまでこれた、自分のやり方は間違っていなかったと更に自信が深まりました。この会社で今度こそ最後まで勤め上げる、ぼんやりと未来も描くようになっていました。
ちょうどそのころ妻が体調不良をしきりに訴えるようになりました。妻は私と違ってメンタルが強く少々のことでは決して弱音を吐くような人間ではありません。私が自己破産した時も弁護士の手配からすべて彼女がやってくれたようなものです。
その妻が自ら進んで精密検査を受けました。結果は癌でした。
ホジキンリンパ腫というリンパの癌です。
ホジキンリンパ腫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ホジキンリンパ腫
ホジキンリンパ腫(ホジキンリンパしゅ、英: Hodgkin lymphoma、略称:HL)は、悪性リンパ腫の一分類で、病理組織学的にはホジキン細胞 (Hodgkin cell) あるいはリード=シュテルンベルク細胞(英語版)などを認める事が特徴的である。従来、ホジキン病 (Hodgkin’s disease、略称:HD) と呼ばれてきた病気である。名前は1832年にこの病気を発見したイギリスの医師トーマス・ホジキンにちなむ。
症状には発熱、盗汗、体重減少がある。しばしば、首、脇の下、鼠径部に無痛性の肥大したリンパ節(英語版)を認める。この病気の患者は、疲労感や痒みを感じる。
ホジキンリンパ腫のおよそ半分がエプスタイン・バール・ウイルス (EBV) を原因とするものである。その他の危険因子としてはこの病気の家族歴やHIV/AIDSを有していることがあげられる。ホジキンリンパ腫には古典的ホジキンリンパ腫と結節性リンパ球優位型ホジキンリンパ腫(英語版)の2つの主要な種類がある。診断はリンパ節中の多核化したリード=シュテルンベルク細胞といったホジキン細胞の確認による。
ホジキンリンパ腫は化学療法、放射線療法、幹細胞移植によって治療される。治療の選択はしばしばがんの進行度合いと、治療に好ましい特徴を有しているかどうかに依存する。病気の初期では、治癒がしばしば可能である。米国における5年生存率は86%である。20歳未満の患者では生存率は97%である。しかしながら、放射線照射と一部の抗がん剤は、その後数十年に渡って、他のがんや心臓病、肺病の危険性を増大させる
【癌】という病名を聞いて私は絶望しました。自暴自棄にもなりました。
当時のことをたまに妻に聞きますが本人は存外冷静だったようで自分が癌で 死ぬわけがないという謎の確信があったようです。一方私はひたすら絶望し周りも何も見えない状態に陥りました。手術前、インフォームドコンセントが行われるのですが、それに参加することすら断固として拒否しました。 これ以上悪い知らせは聞きたくもなかったですし、聞けるキャパも残っていませんでした。この時期の記憶はあいまいです。仕事は続ける気もせず退職しました。当然留意されたのですが、最後は私が謎にキレて社長に対し暴言を吐いて携帯を切った記憶があります。妻と娘の話では本当に使えない状態で毎晩酒を飲みに夜の街を徘徊していたとのこと。結局、妻の苦悩など考えず自分のことばかりで精一杯だったのでしょう。
手術は成功しました。術後、執刀医からの説明は衝撃的でいまだに忘れることができません。私と娘が座っているテーブルの上にビニール状のものでパッケージングされた肉の塊のようなものを無造作に置き、「これが切除した患部です。触ってみてください。結構固いでしょ?」と言われました。 何かあっけにとられ恐る恐るそのパッケージを触りましたが何の感情も湧いてきませんでした。さすがに医者は冷静ですよね。
妻が苦しんだのは手術後の薬物療法、および放射線療法の時でした。抗癌剤を点滴で体内に入れるのですが、それが耐えがたいほど痛かったらしくギザギザの金属片を体に流し込まれるようだったと言います。また、放射線療法ではまさに映画のように頭髪は脱毛しまさに癌患者という風貌になってしまいました。一緒にウィッグを作りに行ったり、見舞いにも頻繁に通ったつもりですが、後日、彼女曰く「パパは全然来てくれなかった。本当に頼りにならないって○○(娘)とも話してたのよ。」とのことでした。
妻の癌でさらに私は自分の評価を下げてしまったようです。
5年が経過し癌は再発しませんでした。何とか生還者になれたようです。今でもたまに考えますが妻が癌になったのは私の「業」のせいなのではないかと。
【塾放浪時代】
妻の病気がある程度落ち着いてから私は改めて転職活動を始めました。 何かあったときにすぐに駆け付けられるようにと同じ市内での塾を募集を調べたのです。でも、よくよく考えれば妻は仕事に復帰したので何かあったときは大阪市内にいる場合の方が断然多いはずです。当時はそんなことにも気づきませんでした。妻のことを思ってというより、やはり自分勝手な想像の中で動いていたのでしょうね。
運よく市内に良さそうな塾を見つけました。社長は私よりも若くHPを見ると塾には珍しくホワイトな内容が書かれていました。ここしかないと勝手に思い込み電話をかけ早々に面接をしてもらいました。勝手にこの社長はホワイトでいい人だとの思い込みがあったので面接は楽しい雰囲気で終わり無事に採用となりました。実際、若くて良い社長だったのですが。
開校してまだ日も浅い塾でしたが、珍しく楽しく仕事をしていた記憶があります。その時だけでしたが、私には珍しく自分から生徒の集客にも力を入れて伝手をたどって電話をしたりもしてみました。妻が回復したことと自身の躁期が重なっていたからなのでしょう。
また、この塾に来て初めて”生徒のために”という気持ちで授業を含め行動をしていたと思います。この塾は個別指導だったのですが個別指導塾には少なからず事情を抱えた生徒が来ます。当時、私が担当していた生徒の一人は不登校でした。詳細は明かせませんが中3になってもほとんど学校に行けていませんでした。それどころか塾もちょくちょくお休みする状態です。受験を前にその生徒の内申点をお母様から聞いて予想以上にひどかったことに愕然としました。経済的な事情もあり私立の選択は有りません。その生徒の 志望校自体は難関ではありませんでしたが内申点を考えると本番の試験で相当高い得点が必要なことは自明でした。
躁期だった私は生徒のお母様に提案をしました。
「学校は休ませて、午前中から塾に来てください。私が責任をもって授業します。」
通常、塾はご存じのように昼過ぎから開校し夕方から授業が始まります。午前中から授業をするとなると私にとっても体力的に相当な負担となります。ですが躁期の私はそんなことも考えずひたすら合格してもらうこと、酷い内申点を付けた中学校を見返すことしか考えていませんでした。生徒も前向きについてきてくれたおかげか授業はわりに楽しく進めることができました。肉体的なつらさはありましたがその生徒が笑顔になるとそのつらさを一時でも忘れることができました。
入試の結果は”サクラサク”でした。金銭的な報酬は得られませんでしたが精神的な充足とやり切ったという満足感が私を満たしていました。こういった意味での充足感を与えてくれた生徒は15年の中で3人ほどです。
入試が終わると大抵、鬱期に入って仕事を辞めたり休もうとしたりするのですが今回の塾では比較的鬱の波が小さく済んだ気がします。塾は大繁盛とまではいきませんでしたがそれなりに利益も出し2教室を新たに出店することができました。成長する企業の中にいるとやはり良い影響をもらえるものなのでしょうか。私の躁鬱は今まで程、酷くはならず何とか収まっていました。
それにしても教育とはいったい何なのでしょうね。私は決して自分のことを教育者だと思ったことは有りません。たかが塾の先生に真の意味で先生と名乗る価値などあるのかもわかりません。命がけで塾の先生をなさっている方々ごめんなさい。ただ、確実に言えることは生徒に教えることはできなくても生徒から学ぶことは多いということです。私に学びを与えてくれた生徒たちは私をどんどん乗り越え先へ先へと進んで行きます。それは嬉しさよりも寂しさが勝っています。私はこの場から動けていないと。
そんな私にとっての平安はある日の社長の突拍子もない一言から崩れ始めました。
”カンボジアで事業を始める”
志は素晴らしいと思いますし、事実私自身も高揚感を覚えました。正直に言えば当時、授業を繰り返す日々に軽い閉塞感を感じていた気がします。
海外経験者の私が担当に選ばれました。その時、年下の社長に念を押したことを覚えています。「海外での事業には現金が必要になります。最低でも2千万は覚悟してください。」
当時の会社規模、資金力ではやはり無理がありました。今でしたらクラウドファンディングという手もあったのでしょうが。
半年ほどでカンボジアからは逃げるように撤退しました。帰国して私は 腑抜けになりました。生徒や保護者に大見えを切って出て行った手前、また授業に戻るという選択肢は有りませんでした。
鬱も拍車をかけていたのでしょう。蒸発するようにその会社を辞めました。
今でもそうですが塾は常に人材不足という業界です。次の塾もわりにすんなりと決まりましたが躁鬱がひどくなり自分が制御できない状態でした。 大手のフランチャイズ系の塾は1年で辞めました。原因は些細なことですが社長と喧嘩をしたことです。その次の塾も社長と喧嘩をして逃げるように 退職しました。伝手を頼って大手の塾に就職できましたがあまりのブラック環境に我慢できず1週間で逃げました。内定をもらった大手の個別塾は1日も出社することができずに辞めさせてもらいました。
辞めては応募し、また辞めての繰り返しです。正直に履歴書を書くことなどできません。履歴書の欄が足らなくなってしまったからです。
鬱で引きこもり退職を繰り返すたびに昔言われた言葉を反芻していました。
「転職は転落だよ」
私は果てしなく堕ちてゆきます、今も落下は止まりません。
好き放題に生きてきたのだから仕方ないのでしょうね。人生はどこかで 帳尻が合うようにできているようです。だからこそ今は少しだけ希望を持っています。今現在、私の人生は支払いが受け取りを大幅に上回っている気がしているからです。だからこそシニアから前を向こうなどと思えているのです。老成できず幼いままの精神を抱え、逆にその幼さを武器に前に進もうとしている。これが今の私です。
最後に社員として校長を務めた塾についてお話して、自分語りを終わりにしようと思います。
その塾には4年ほど勤めました。50歳を超えた私を良く採用してくれたものだと思います。大阪に4教室を持つ零細企業でした。社長はまだ30代と 若かったのですがある面で尊敬できました。その塾は個別スタイルでアルバイトの大学生が教えていましたが社員もかなりのコマ数授業を持つというスタイルでした。小・中学生を教えることは何の苦にもなりませんでしたが 私の予想以上に高校生の授業を任されることが多かったです。1,2年生でしたら即興で何とかなりますが、高3の受験対策となるとそうもいきません。大学入試の問題を解説するために最低毎日3時間は予習をしていました。
ですが最初に塾に就職したとき同様、私は教えるというより自分が勉強することにある種の満足を感じていたようです。自宅のプリンターを使って 何十枚、何百枚と過去問を印刷し自身で解き解説の準備をしていました。 苦しいというよりも楽しかったのかもしれません。受け持った生徒が比較的実績を上げてくれたことも自分の満足に繋がっていたのでしょう。この4年間は本当によく勉強しました。妻にも呆れられるくらいです。半ば冗談ですが高校時代にこのくらい勉強をしていたら一流と言われる国立大学の合格もあながち夢ではなかったかもしれません。やるべきことには必ずタイミングというものがあるのですね。
3年間は比較的精神的に落ち着いていた気がします。それこそ毎日の勉強が良かったのかもしれません。ですが、最後の1年は精神的にボロボロでした。会社や上司から理不尽な扱いを受けたわけでもありません。とにかく 鬱期が長く続き教室に行くこと自体が苦痛になっていました。もしかしたらコロナで色々な状況が激変しオンライン授業に切り替えたりしたことも一因かもしれません。
コロナ鬱が増えたという話はよく聞きます。私の場合は従来から抱えている双極性障害にコロナ禍が拍車をかけたのでしょう。会社には正直に自分の病気のことを伝え半月ほど休職させてもらいました。本当にそれは今でも感謝しています。復職後も体調は低調なままで改めての休職をお願いし1か月休職の許可をもらいました。でも、もう限界でした。
休職明けにそのまま退職をしました。休職中に何度かネガティブで失礼なメールを 社長に送ったことも原因の一つだと思います。
こんな私が偉そうにシニアの時代の生き方についてお話しする資格など あるはずもありません。ですからご一緒に考えていただければと思います。
繰り返しになりますが私はこんな状態でもまだ希望を全て失ったわけではありません。躁鬱状態が落ち着いているというのも一因でしょう。失ったものをこの場で冷静に振り返り改めて前に向かって進みたいのです。是非とも皆さんのお力を貸してください。私もできる限りのことをしますので。
【まずは何から始めましょう?】
さあ、前を向いて生きてゆくために私たちは何から始めたらよいのでしょうか。私のお勧めはまず、自分の今までを振り返るということです。それは決して後悔したり反省するためのものではありません。
本当に自分がやりたかった、やりたいことを意識するためです。
映画や本などでよくテーマになっていますよね。「死ぬ前にしたい10のこと」など。
以下の本はまさにそのことについて書かれています。
『死ぬ瞬間の5つの後悔』 ブロニー・ウェア著 仁木めぐみ訳
新潮社刊 1728円(税込)
本書の要点
(1)「死ぬ瞬間の5つの後悔」は、「自分に正直な人生を生きればよかった」「働きすぎなければよかった」「思い切って自分の気持ちを伝えればよかった」「友人と連絡を取り続ければよかった」「幸せをあきらめなければよかった」である。
(2)もしも死の間際になって、自分の人生を後悔したとしても、ありのままの自分を受け入れ、許すことで、心の平安を手に入れられる。
(3)後悔しない人生を歩くためには、自分の心に正直に生き、すべての幸福に感謝することが大事である。
引用:ダイアモンドオンライン 「死の直前、人が最も多く後悔する5つのこと」
https://diamond.jp/articles/-/208661?page=2
確かになあとうなずくような5つの後悔ですね。
でも、この後悔はまだ我々には少しだけ早いかもしれません。この後悔をする前にはまだ時間は有ります。そうです、だからこそシニアとなった今からなりたい自分、やりたいこと、やりたかった仕事にチャレンジをしてみませんか。もちろん、野球選手など体力的には不可能な職業もたくさんあります。ですが、やりたかったことに一歩でも近づきたいとは思いませんか。 でしたら一緒にやってみましょう。
私の場合、なりたい職業は作家です。もちろん今からでも間に合うはずです。だからこそこうして衝動に突き動かされるままにブログを書いています。先にも述べましたが「なりたい自分になる」ためには自分の今までを振り返る必要がありそうです。そのためにその内容を是非とも文字にしてみましょう。
お勧めはブログです。自己満足に終わるかもしれませんがもしかしたら 副業として収益を上げられるかもしれません。シニア世代の心配事の一つとしてお金が挙げられます。定年退職を迎え、仮に定年を延長したとしてもいただける給料は半分ほどになってしまうでしょう。年金もあまりあてにはできそうもありませんね。でしたらいっそのこと副業を始めてはいかがでしょうか。今はWeb上で稼げる時代になっています。ただ、プログラミングのような全く新しい技術を今から習得するのはかなり気が重い作業です。せっかく前を向いて生きてゆくのに重荷となる作業は避けた方がよさそうです。 それでしたら資格もいらないWebライターとしてデビューするというのはある意味現実的かもしれません。その練習としてもブログを始めることは良いことなのではないでしょうか。少し真剣にブログ運営について考えてみましょう。
【ブログを書く】
シニア世代にとってブログとはある意味日記のようなもので良いのではと思います。ただし、日記と違いブログは一般に公開するのですから読者の 目線を意識しなければなりません。
単に日々をどう過ごしたかではなく、日々の気づきの中から同年代もしくは若い読者が得られる何か情報を発信してみてはいかがでしょうか。ブログを始めるなんて敷居が高いと考えていらっしゃる方もいるかもしれませんが今、お読みのnoteやamebaブログなどのプラットフォームを使用して始めればそれほどストレスなく始めることができると思います。ただし、真剣に 副業として考えているならば話は別です。自分自身でブログを一から開設 する必要があります。そしてそのブログから収入を得るためには多くの人をそこに集客し彼らに対して何かを販売して利益を上げる必要もあります。 もちろん何か形ある商品を売るでも構いません。ですが、今ブログで収入を上げる方法として一般的な方法はアフィリエイトやGoogleアドセンスと いった手法を用いることです。
現在インターネットで少し検索すれば上記2つについての解説はたくさん出てきます。念のためここでも簡単に説明をしておきますね。
大まかにいうならば自身のブログに商品やサービスの広告を張り付け訪れた人がその広告をクリックしたりその広告経由で物を買ったときに広告主からそのブログの運営者に対して利益が支払われるという流れです。
グーグルAdSense
AdSense の仕組み
Google AdSense は、オンライン コンテンツから収益を得ることができるサイト運営者様向けのサービスです。コンテンツや訪問者に基づいて、関連する広告がサイトに表示されます。広告は、商品やサービスを宣伝する広告主によって作成され、費用が支払われます。広告の種類によって広告主が支払う金額が異なりますので、広告から得られる収益も異なります。
AdSense で収益を獲得するための 3 つのステップ
1. 広告表示を有効にする
2. 掲載料金の最も高い広告をサイトに表示する
3. 収益を得る
https://support.google.com/adsense/answer/6242051?hl=ja
引用:Google AdSenceヘルプより
アフィリエイト
商品を自分のブログで紹介することでそれにより売り上げが発生すればその中から利益がブログ運営者に還元されるしくみ。
これら2つの違いを簡単にまとめると
・ 「アフィリエイトは報酬発生までの難易度は高いが報酬単価が高い」
・「Googleアドセンスはクリックしてもらうだけで報酬が発生するので
難易度は低いが報酬単価は安い」ということです。
簡単に書いていますが、グーグルAdSenseを取得するためには審査を通過しなければなりません。こればなかなかに難しく1度や2度で合格するものでもないようです。
アフィリエイトの場合は企業とブログ運営者の間に広告を仲介する企業がありその企業経由で広告を自身のブログに張り付けるという手順となります。
話がだい脇道にそれてしまいましたが自身のブログを立ち上げるのも多少手間がかかります。イメージとしては自分で更地に一軒家を立てる感じでしょうか。
Wordpressというプログラムを導入するのが一般的ですが皆さんにとっては???かもしれません。私の目的はブログの立ち上げ方を説明するのではありませんのでここでは割愛させていただきます。もし、ご興味があればYoutubeなどで検索すれば丁寧に解説してくれている動画をたくさん見つけることができるでしょう。
今までパソコンでネットと言えばメールの受送信かネットニュースを見るくらいが我々世代です。ですが、ここは臆することなくネットという仮想現実の世界に一緒に飛び込んでみませんか。ブログを使って大金を稼ぐことは容易なことでありません。ですが、新しい世界を知りその中で自分の居場所を作り出すなんて少しワクワクしませんか。そしてブログ開設をきっかけにネットを使って本格的に収益が挙げられたらどうでしょう。新たな楽しみが生まれたことになりませんか。もちろんブログにとどまらずYoutubeの世界に進まれても楽しいのではないでしょうか。最近のスマホであれば録画から編集そして動画のアップまでできてしまいます。
そうです、新しく前を向いた自分を外に向かって発信していこうではありませんか。前を向いてヴァーチャルな世界に足を踏み入れてみましょう。
【人とつながる】
今までの人間関係は会社をベースに築かれてきたと思います。ですが、 定年を迎えたときその関係はどうなるでしょう。もちろん定年延長をすれば 異動でもない限り今までの人間関係は続くはずです。ですが、その関係は 微妙に変わると思いませんか。
今までの部下が上司になったり、半減した給与に比例して自信を喪失してしまうかもしれません。今まで通り残業もバリバリこなすのでしょうか。 仕事量に変化は生まれませんか。
今までの人間関係を清算しましょうとは言いません。新しい人間関係を 作ってみてはいかがでしょうか。習い事を始めてみる、スポーツクラブに 入ってみる。地域のボランティアに参加する。素晴らしいことですが少し ハードルが高いと感じていますよね。
でしたらブログの時と同様、世界を変えてみましょう。ヴァーチャルの中に新たな人間関係を作ってみてはいかがですか。
例えばTwitter。
140文字という制限の中で自分の好きなことを書いて公開することができます。言っている内容(Tweet)に賛同する人が現れたら”いいね”という承認が得られ、フォロワーというヴァーチャルの友人もできるかもしれません。最初は自分の身の回りのことを勝手につぶやくことから始まるかもしれません。まずは誰も反応してくれないでしょう。でも、諦めずに視点をかえて つぶやく内容を吟味し反応がもらえるようにチャレンジしてみましょう。
ただし、注意も必要です。Twitterはある意味ビジネスのツールにもなっています。ビジネスの形態を簡単に言えば、フォロワーをできる限り増やし そのフォロワーに対して有形無形の商材を売るのです。
Twitter初心者である初心なあなたにダイレクトメール(DM)が来るかもしれません。ワクワクしながらそのメールを開くと耳障りの良い言葉とともにビジネスの勧誘が書かれているかもしれません。
すべてが詐欺だとは決して申し上げません。ただし、気を付けるべきだということは忘れないでくださいね。でも逆にあなたもビジネスのツールとして使ってみてはいかがでしょう。「売るものなんてない」とおっしゃらずに。シニアのあなたには豊富な経験があるはずです。その経験を時間単位で売ってみては。例えば「悩み事相談・会社組織の中でどうあるべきか」などはすぐにでも語れそうですよね。30分で500円ではどうでしょう。
でももしかしたら本当に全く新しくそして年代も離れた友人に出会えるかもしれません。その友人はヴァーチャルではなくリアルに会って遊びに行ったりできるかもです。
前を向いて生きてゆくために一緒に世界を広げましょう。リアルだけでなくバーチャルの世界であったとしても。違う世界では違う自分を発見できるかもしれません。
【定年退職後の自分】
人生100年時代を迎え同時に年金制度の危機も叫ばれる中、社会は定年を延長してゆく方向に向かっています。60歳で退職をし65歳まで再雇用の道を選ぶ人が全体の6割ともいわれています。残りの4割のうち半数以上は転職という道を選び新たな職場で定年後を迎えます。大半のシニアが現役同様 組織に属してその先を生きていくわけです。
同じ職場で働けることにはメリットが多そうです。人は新しいことにチャレンジをするときに大抵ある種の恐怖や不安を覚えます。実際、自分が感じる恐怖や不安が起きる確率は5%にも満たないそうですが当事者にとっては大問題です。再雇用もしくは転職という組織に属して働く道を選べばその 不安は解消されます。
ですから定年後に独立もしくはフリーランスを選ぶ方は全体の5%にも 満たないのではないでしょうか。
厚生労働省が発表している「高齢者雇用の現状等について」
https://www.mhlw.go.jp/content/12602000/000551650.pdf
上記の資料を見ると会社は60歳以上の受け入れを促進する方向に向かっています。それどころか70歳でも会社に残ることも可能になってきています。
再雇用の道を選んだ人の不満の7割は給与に関することです。
再雇用された方々の約半数は給与が半分程度に減額されます。半分まではいかないまでも3,4割の減額を含めるとほぼ大半の再雇用者の給与は現役世代より大幅に目減りします。
それでも人生100年時代ですから不満があっても再雇用の道を選ぶ人が多いのも納得できます。
ただ、狭い範囲ですが私の周りでは女性は再雇用の道を選び、男性は退職して転職、バイトなどの道を選ぶ人が多いようです。理由は案外意外なところにあります。
我々世代より少し上の方々はパソコンの操作が得意ではありません。 再雇用された場合、事務仕事をする機会も増えるのでパソコン操作は避けてはと売れない道です。そのため、どうしてもパソコンに対してアレルギーのある世代は転職や、バイトの道を選ぶのだそうです。
その点女性は現役時代からパソコンの操作になれているのですんなりと 再雇用の現場になじめるようです。
このパソコン問題も我々世代で何とか解決されそうなのでますます再雇用の道を選ぶ人が増えるかもしれません。
ですから前に述べたようにシニア世代は積極的にパソコンに取り組みインターネットという世界で生き残るすべを得るべきだと思います。そして新しい世界に踏み出すこと、前を向いて生きることによって再雇用以外の道、 例えばフリーランスのような働き方を選択できるのではないでしょうか。
フリーランスがバラ色だとは決して申しません。ですが、もし今の仕事が好きではない、なりたい自分を目指してみたいという気持ちがあるのでしたらネットの世界に自分の居場所を作ることも可能です。
今までの仕事人生を振り返り、何か少しでも悔いが残っているようでしたらチャレンジすることをお勧めします。
無責任に聞こえるかもしれませんが何とかなるものです。アルバイトも 職種にこだわらなければ探すことは思いのほか簡単です。チャレンジして 万が一の時はセーフティーネットに助けを求めましょう。ですが、その前にパートナーの理解と承諾は必要不可欠です。
シニアが前を向いて生きていくために欠かせないことの一つとしてパートナーとの関係性があります。是非、自身の人生を考えるときには、パートナーのことも真剣に考えてみてください。前を向いて歩きながら、パートナーとも新しい良い関係を築ければこれほど楽しいことはないでしょう。
【将来への不安】
シニアの皆さんが感じる将来への不安とは何でしょうか。
私のイメージとしては「お金」「健康」「介護」の3つです。
日本経済新聞の電子版に2021年9月7日に掲載された記事を見ると
セコムが「老後の不安に関する意識調査」の結果を発表しています。
https://www.nikkei.com/article/DGXLRSP617388_X00C21A9000000/
その記事の中で「老後の不安に関する意識調査」結果が発表されています。
https://release.nikkei.co.jp/attach/617388/01_202109071416.pdf
その調査結果を見ると2021年の段階で8割以上のシニアが将来に不安を感じています。
そしてその不安の上位3つが
・健康不安
・経済的な不安
・介護に関する不安
となっています。
明るく前を向いて生きてゆくためにはこれらの不安とまずは向き合う必要がありそうです。それでは一つずつ不安を取り上げて一緒に考えてゆきましょう。正しい答えは見つからなくても避けては通れません。
【健康不安】
皆さんが衰えた、もう若くないと感じ始めたのは何歳くらいでしょうか。 私の場合は双極性障害という病気以外の持病はないため55歳くらいまでは 衰えをほとんど感じたことは有りませんでした。双極性障害は厄介な病気ですが、それが直接、死に結びつくことは有りません。
ところが57歳を迎えてから急に体に変調をきたしだしました。
授業中に突然、動悸がひどくなったり最悪の時は手が震えたりもしま した。個別指導の塾で教えていたので手の震えなどの変調は下手をすると 生徒に悟られてしまいます。さすがに不安を感じ始めた私は近くの病院で 精密検査を受けました。
心電図はもちろんのこと一日の心臓の調子を調べるためにポータブルサイズの心電図もつけられ一日を過ごしました。
結果、その病院では判断できないということで、紹介状を書いていただき国立循環器病初で本格的な精密検査を受けることとなりました。
生まれて初めてあのように大きな病院で検査をうけました。心臓のエコーを取りながら二人の医師が小声で何か話し合っているのを聞いて不安が大きくなったことを覚えています。
大きな不安を抱えたまま検査結果を待ちました。
結果は異状なしとのこと。
精神的なものではないかとも言われました。確かに双極性障害を患っていますがそれが動悸に結びつくとは思えません。ストレスだったのでしょうか。
国立循環器病センター病院の診断結果を聞いた妻は私に対して「更年期障害じゃないの?」と言いました。
それまで私は更年期障害=女性特有の症状と考えていたので正直意外で した。ネットなどで調べてみると男性にも更年期障害があることがわかりました。男性の更年期障害はLOH症候群とも呼ばれています。
一般社団法人日本内分泌学会の記事から見てみましょう。
http://www.j-endo.jp/modules/patient/index.php?content_id=71
男性の更年期障害は男性ホルモンであるテストステロンの低下が原因です。
これが発症する年齢は女性ほど、はっきりとはせず40代以降はいつ発症してもおかしくないようです。テストステロンが減少する主な原因は加齢やストレスです。おもな症状としては以下のものが挙げられます。
・精神的症状
不安
いらいら
鬱状態
不眠
集中力の低下
記憶力の低下
性欲の減少
・身体症状
筋力低下、筋肉痛
疲労感
ほてり、発汗
頭痛、めまい、耳鳴り
性機能低下
頻尿
これらの症状がでていて気になる方は是非とも病院で検査をしてみてください。
私はまず内科系のクリニックを受診し血液検査をしました。
分泌されているテストステロンの量を分析してもらったのです。
その結果、テストステロンの値が平均より大幅に下回っていることがわかり医師からは2種類の治療方法を提示されました。
・漢方薬の服薬
・ホルモン治療(ホルモン注射など)
ホルモン治療をする場合は前立腺癌のリスクが高まるとのこと、治療は別の病院、おもに泌尿器科でおこなうことを伝えられました。
少し悩みましたが漢方での治療を選択しました。
ですが医師からは即効性はないですよと言われており納得していたつもりだったのですが、どうにも症状が改善しなかったので、改めて妻とも相談し泌尿器科に通院することに決めました。
診察はいたってシンプルで血液検査をしてテストステロン値を把握し、 そのうえでホルモン注射をするだけです。ちなみに私はお尻に注射を打ってもらいました。この年になって他人にお尻を見られるのは気持ちの良いものではありませんがすぐに慣れます。
治療の結果はどうかと聞かれると正直わかりませんといったところです。確かに注射を打ってもらったときは元気になった気になりますがあくまでも気の問題であってプラシーボ効果かもしれないとも思いました。
私の場合は双極性障害があるので単純に効果を実感できなかったのかも しれません。
1回あたりの診療代は2,000円程度です。
数か月通いましたが効果を実感できなかったため現在通院は中断しております。
ですが、不調を感じているシニア男性には更年期障害を疑ってみる必要はあると思いました。ホルモン注射で元気になれるのでしたら前向きに生きることを考えると安いものではないでしょうか。
そのほかでシニアになって気を付けたいのは食事です。バランスよく腹八分目にとどめておくことを心がけるべきでしょう。ですが我々の年代には飲酒の習慣が身に沁みついている人が大勢います。仕事のストレスを酒で晴らしたり、酒の場を利用してコミュニケーションを深めたり・・・。
一方、現代の20代、30代はこのような飲酒の習慣を好まない人が多いようです。
私もあえてこの場を借りて申し上げるなら
「お酒はやめましょう。」と声を大にして言いたいです。色々調べましたが酒による健康にプラスになる効果は皆無のようです。
人によるのかもしれませんがお酒を止めることはそれほど難しいことではない気がします。私も禁酒をスタートしてすでに5か月目に突入しました。お酒を飲まないと食事の時など何となく手持無沙汰な気持ちになりますが 慣れてしまいます。酔っぱらうこともないので食後の時間を有意義に使うこともできます。食事、お風呂、読書をセットにして習慣化するのはいかがでしょう。お酒を止めるに当たり現れた変化は
・炭酸水を飲む機会が増えた(ノンアルコールを含めて)
・甘いものを好んで食べるようになった
です。甘いものは違った意味で病気の原因となるので最近は注意をしています。
シニアを前向きに生きていくためにもこの際、お酒とはお別れしてしまいましょう。禁欲的にやめるのではなく新しい時間を生み出すために前向きにお別れするのです。アルコール中毒でない限り皆さんが想像するような苦行ではないことを保証いたします。安心して禁酒に踏み出してください。
【経済的な不安】
経済的な不安はその人が置かれている状況によって程度が様々です。
住宅ローンの残額、子供の年齢(学校)、親の介護など要素は色々あります。
ただ、確実に言えることは収入は減り、年金もどこまで当てにできるかわからないということです。
・収入が減る
・年金が当てにならない
この二つに対処するためには対策は一つに絞られそうです。
【自身の力で稼ぐ】
これしかありません。
ただし、定年後、再雇用を選んだ場合特に日本の企業では確実に給与は下がります。強固な顧客、突出したスキルを持っているのでしたら外資に転職するのは有りです。外資はジョブ型の雇用をするので働きに応じて給与を払ってくれます。ただし、肩書が付くかは不明ですが。
【年金に頼る】
老後2000万問題など年金に対する不満、不安は我々の間に広がっています。
実際知りたいのは「いったいいくら貰えるのか」ということでしょう。
実際、収入や納付した期間など人により金額は変わってきます。
ここでは大まかな目安を見てみましょう。
北陸銀行「ほくぎんマネーのツボ」より引用
https://www.hokugin.co.jp/cs/increase_insurance/contents/002.html
こちらのページに記載されている年金のシュミレーションから大まかな金額を提示させていただきます。
1.会社員と専業主婦の場合(会社員の年収は500万円と仮定します)
二人合わせて約20.3万円/月
2.会社員と公務員、共働きの場合(会社員の年収は500万円、公務員の年収は400万円と仮定します。)
二人合わせて約26.3万円/月
3.自営業の夫婦の場合
二人合わせて約13万円/月
いかがでしょうか。予想通りもしくは予想外に少なくてがっかりしたでしょうか。
年齢を重ねれば物欲などはなくなり使うお金も自然と減ってくるものです。
ですが、ある程度余裕がなければ万が一病気になった時など困ってしまいます。生活のレベルを落としすぎるのも少し惨めな気がして寂しくなります。
私からの提案はご夫婦で副業をすることです。つまり各々がシニア世代から新たな仕事を始めるのです。
ネットを使って調べればシニア歓迎の案件もそこそこ出てきます。
主な仕事をあげてみます。
・事務、入力
・軽作業
・清掃
・介護、福祉
・インストラクター、講師
・スーパーマーケット
一部を除いて専門的な知識も、負担となりそうな体力も必要はなさそうです。前向きに生きるためにも自分のバイアスを取り払いこれらの中から仕事を選んで挑戦してはいかがでしょうか。
もちろんお金を稼ぐことは必要ですが、万が一合わなかった場合は気にせずに辞めてしまえばよいのではないでしょうか。
チャレンジしていく中で自分に合った仕事を見つけるぐらいの気持ちでちょうどよい気がします。
新しことに挑戦しその中から学ぶことによって、話し相手もしくはパートナーとの話題を作り出すことができます。
できればで「きる事」ではなく「やりたい事」を選んで挑戦していただきたいと思います。
先に述べたネットの世界に足を踏み入れるのも素晴らしいと思います。
私も含めこれからのシニアは謙虚で素直にならなくてはと考えます。
新しい分野で挑戦するためには指導者が必要になってきます。
特にネットの世界においては指導者は自分より年下の若者がほとんどです。自分の子供ほどの人たちから素直に学べるかが前向きに生きることのカギの一つかもしれません。
素直になって新しいことを学び、その新しい経験、そこから得た感情をパートナーとシェアすることによりパートナーとも新しい関係が築けるのではないでしょうか。
たとえシニアになっても我々の精神はある意味幼いままです。
孤独に耐え一人で歩いていくほど強くは有りません。
パートナーの存在をかけがえのないものとして大切にしましょう。
【介護に関する不安】
介護と一口に言っても様々なパターンがあります。
・実の親の介護
・義理の親の介護
・パートナーの介護
・自身が介護される
法律的にみると子供は親を介護する義務がありますし、それを放棄すると刑法で罰せられるのです。
実際、親の介護の問題で兄弟がもめたり、金銭的な問題が生じたり、老老介護の問題も話題になっています。
私はここで親の視点から介護を考えてみたいと思います。
親は子供に介護されることを望んでいるのでしょうか。
年を重ねると人は子供に返ると言われます。ですが、そもそも精神的には子供時代からそれほど大きな成長などしていないというのが私の考えです。
そんな幼い精神状態では当然寄り添う人が必要でしょう。
ですが、肉体的な介護を親は子供に対して本当に期待しているのでしょうか。
子供がいくら年をとっても親にとっては最後まで子供は子供です。
子供が親を肉体的に介護するのは不自然な気がします。
親は子供に対しては最後まで親としての尊厳を保っていたいのではないでしょうか。
もちろん認知症などを発症した場合話は変わってきます。
ですが、親としての尊厳を保った扱いを子供はしてあげたいものではないでしょうか。
そうなると必要となるのは肉体的な介護ではなく、金銭的な援助が一番良いのではないでしょうか。
逆に、シニアの我々はその日が来ることを覚悟して金銭的な準備をする必要があると思います。
お金の関係なんて冷たすぎるといわれるかもしれません。
内閣府の調査を見ると約半数の人が「できれば自宅で介護を受けたい」と答えています。https://survey.gov-online.go.jp/h15/h15-kourei/2-2.html
この場合、介護を受ける前提で調査がされているのでこのような結果になったと考えられます。
誰しも自宅で介護を受けたいのではなく、自宅で穏やかに最後を迎えたいのではないでしょうか。
そのためにも我々シニアは元気なまま後期高齢者にならなければいけません。
お金で割り切るのは確かに冷たいかもしれません、ですが親が子供に対して尊厳を保ったまま衰えていくためにはお金は避けて通れない問題です。
私自身まだ想像はつきませんが、できれば子供からはいつまでも親として尊敬と愛情をもって接してもらいたいと考えています。
綺麗ごとかもしれませんがいつまでも親子が良い関係を保ちながら最後を迎えるためには精神的に寄り添いながらも適度な距離が必要なのかもしれません。
結局今まであげた3つの不安はお金によって軽減されそうです。
シニアはこれら3つの不安に備えるためにいつまでも稼ぎ続ける必要があるのです。
私たちは悠々自適な生活をしてボケてしまうのではなく前を向いて歩いていきましょう。
無理をせず、かとって過度に頼ることなくシニアはいつまでも経済的に自立する必要がありそうですね。
【シニアから前を向いて生きていきましょう】
今まで皆さんと一緒にシニアから前を向いて生きてゆくことについて考えてきました。
皆さんの考えはある程度まとまりましたか?
私の感想としてはボヤっとした生きがいを考えるよりもまずはお金の面の心配を減らそうということです。
お金の心配が減る、つまり稼いでいく生き方がある意味前向きなのだろうと考えています。
お金を稼ぐ方法は
・副業(在宅ワーク)
・アルバイト
・年金
などがありました。
稼ぐためには何らかの形で外の世界と繋がる必要があります。
良い機会です。
SNSを活用してみましょう。
Twitterは比較的楽に始めることもできます。Tweetとは「つぶやき」という意味です。
ですからまずは自分の日常や思っていることを思いつくままに「つぶやく」ことから始めましょう。
ある程度慣れてきたら自身の経験で他の人のためになることをつぶやいてみましょう。仕事の進め方、上司との上手な付き合い方、接待のコツなどなど。
あなたのTweetにたいして興味や好感を持っていただけると「いいね」の ハートマーク❤が表示されます。
予想以上に承認欲求が満たされるものです。Twitterを入口にしてブログやYoutubeの世界に足を踏み入れてもいいですね。
アルバイトの世界では自分より年下の年代が多いことでしょう。
避けることなくかといって過度に迎合することもありません。自然に会話ができれば上出来です。
そして新しい世界で経験した事柄を自分のパートナーと共有しましょう。 逆にパートナーの経験を共有させてもらうことも大切です。
パートナーとともに新しい世界に踏み出してください。
こうしてお金を稼ぐ中で頭と身体の健康は維持できるはずです。
何度もくりかえしますが私たちシニアは年齢ほど精神は成熟していません。孤独になってはいけません。
パートナーの存在はかけがえのない大切なものです。
私は今、ネットの世界で、わからないことに戸惑いながらも必死に前に進んでいます。パートナーには事あるごとに助言を求めています。
皆さんも私と一緒にシニアから前向きに生きていこうではありませんか。
あなたにもそして私にも素晴らしいセカンドライフが訪れることを願ってやみません。
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