*散文*『人非人宣言(2017)』
「人非人宣言」
私は、大きな思い違いをしていた。
はなから、今生に私のような人間の幸せは用意されてなどいなかったのだ。
人並みに子をなし、育て、親となる。
私の帰宅を待つ我が子。老いてゆくたびいとおしくなる妻ー
そういった幸せの彫像は、ある日の理想の中にこそあれど、この「生」の行く先に咲く予定のない、まぼろしの花であったのだ。
私のような人非人が、そのような花を咲かすことなど、無いという事実をなぜ忘却していたのか。
「忘却」。何度さみしさゆえに知り合いに連絡し、友人に連絡し、すがり、そして傷つけ、傷つけられたか。
畳の上に転がった錠剤を、なんど拾い集め、探し、無駄と悟りながら飲み下したかー
「忘却」。いつのまにやら私は、人間になった気になっていたのだ。
誰一人心のよりどころにする人の居ない日々を忘れ、すれ違う視線の中の蔑みを忘れ、己を「廃棄物」と定めた日々を忘れー
大いなる傲慢。いつのまにか友が増え、女と会話できるようになり、私は自分の
「身分」を忘れたふりをしていたのだ。
「だから」今のこの有様がある。友に呆れられ、好いた女に呆れられ、家族にみすぼらしい飯を食わせている。
「思い出せ。」
己の「身分」を。這い上がってなどいない。どこへにも。
いまだにおれは、このごみためにいる。ごみためにいるのだ。
表現をしようと、創作をしようと、音楽をしようと、何度口にしたか。
そのたび、実行せず、この口は呪われてしまった。本当のことなど言えない口に、なってしまった。
机の前に座り、文字をつづり、詩を書き、作曲をする。
おれにはその意欲など、最初からなかったのだ。認めよう。
そろそろ認めよう。そんな意欲は自分にはないと。
だから辛いのだと。表現が嫌いだと。身を、時間を、金を切るのが嫌いだと。
「認める」のだ。
そのうえで、おれにとってこの「つくる」というやつは、いったどんな行為なのか。
それは、人非人にとっての終わらない祈りに他ならないのかもしれない。
今生においての幸せが見当たりそうもない今、幸せなど、肉欲など、贅沢など、すべて、すべてくだらなく思える。手に入らないそれは絵だ。砂の入った缶詰だ。
もう、やめよう。
砂は砂なのだから、砂を噛むのだ。飲み下し、糞にするのだ。
ただ「生活経済」をまわし、「祈り」を続けるのだ。
「祈り」で幸せになれるか?それは知らない。知りえない。
しかし、おれが祈らずしてこの砂地で暮らせるほどの人物であるわけがないのだから。
祈るしかない。見返りを求めず、「幸せの絵」など追わず、砂を噛み、祈る。
人非人にとってのなぐさめは、いつだって何もない空を打ち抜くんだ。