女性の過度な性的描写と性的対象批判の違和感
女性の過度な性的描写と性的対象批判の違和感
「宇崎ちゃん」献血ポスターや「月曜日のたわわ」日経新聞広告で一部の日本人男女や国連女性機関から批判が出ているそうです。理由のひとつが「女性の過度な性的描写は女性を性的対象としてみるステレオタイプな認識を促す」こと。男性としてもその気のない女性に襲われたら不快(*1)なので気持ちは理解しますが、次の違和感があります。
性的対象とみられるから過度な性的描写が掲載されたのではないか。
「宇崎ちゃん」「月曜日のたわわ」のスタイルは過度に性的なのか。
女性が性的対象であること自体は問題なのか。
広告は広告対象の責任を負うか。
ポスター、広告ともにキャラクターを除いて性的な表現はないです。
*1「男は女なら何でもいい」はステレオタイプです。
性的対象とみられるから過度な性的描写が掲載されたのではないか。
過度な性的描写と男性の性的指向、どちらが先でしょうか。過度な性的描写が先の場合、広告をなくすことは有意味かもしれません。男性の性的指向が先の場合、広告をなくすことは無意味かもしれません。
因果が逆(男性の性的指向が先)であった場合、広告を批判する目的や意義は何なのでしょうか。
「宇崎ちゃん」「月曜日のたわわ」のスタイルは過度に性的なのか。
「宇崎ちゃん」事件では「過度な性的描写」と批判されたスタイルを持つ女性から「私がおかしいのか(過度に性的なのか)」という声が上がりました。「過度な性的描写」は該当する女性からすればレッテルであり、その女性にとっては「スタイルが良いのは過度に性的」という理解こそステレオタイプである可能性があります。
スタイルが良いことは過度に性的なのでしょうか。どこかに全人類が合意できる「普通の性的」が存在するのでしょうか。
女性が性的対象であること自体は問題なのか。
日本は少子化です。女性が男性の性的対象でなく、男性が女性の性的対象でなければ人口減少で衰退します。人工授精と養子という対策もありますが、育児と出産の問題が発生します。外国人の受け入れも選択肢ですが、日本人は減り文化は変わるはずです。
男性としても「強制的な性的対象」とされることには嫌悪を示しますが、「強制的でない性的対象」まで区別せず批判することには違和感が残ります。
広告は広告対象の責任を負うか
「月曜日のたわわ」は未読ですが、内容を知っているかで心象に影響があるかもしれません。この場合、広告は広告対象の責任を負うかの議論になるかと思います。この議論、テレビCMと出演者やテレビ番組、テレビ局という話題にも広がると思います。
疑問として、美男・美女や特定の場面を選んだテレビCMは同様のことをしていないのでしょうか。
最後に
批判の背景には様々な歴史があり、多くの想いを内包することは理解しています。ただ、批判の目的は何か、ステレオタイプという批判がステレオタイプでないかは気になっています。