ずっとヒリヒリしていた ーー清繭子「夢みるかかとにご飯つぶ」読書感想文
清繭子さんのエッセイ「夢みるかかとにご飯つぶ」、遅ればせながら拝読した。
清繭子さんといえば、好書好日での連載「小説家になりたい人が、なった人に聞いてみた。」というタイトルそのままのインタビュー記事でおなじみ。
作家を目指して新人賞に応募する「公募勢」はほぼ皆さん読んだことがあるのでは?
私は「公募勢でござい」と胸を張るには、応募歴も熱意も努力も足りていないのだが、純粋に記事が面白くて拝読している。
清さんは、短編小説の公募「深大寺恋物語」にて審査員特別賞を受賞されたり
最近では創作大賞2024 中間選考を通過されたり……って、なんか、皆知ってることをつらつら書いてて恥ずかしくなってきた。
そんな清繭子さんの初のエッセイ集が「夢みるかかとにご飯つぶ」である。拝読して、いや、読み始めの割と序盤から、思っていた。
「リンネル」読んでると思ったら、「あしたのジョー」だったーー
何言ってるか分からねぇと思うが、そのままの意味なので分かって欲しい。
「夢みる」「かかと」「ご飯つぶ」
この柔らかいワードから、作家を目指しつつ日々を生きる生活人のきらめき……みたいなものを想像していた。
いや、実際そういう内容ではあるのだけれども、文体も軽やかでユーモアと愛に溢れているのだけれども、読んでてずっとヒリヒリするのだ。
「作家をめざしつつ」「生活人のきらめき」。
この、清さんがもつ二面が、どちらも私の想定を超えた、規格外の硬度とサイズだった。
清さんは、ずっと何者かになりたがっている。何者かになりたい、ただそれだけなら、色んな人が当てはまると思う。でも、清さんは、何者かのバリエーションが豊か且つ、何度だって立ち向かい、何ならもう何者かになっていた。
「刺繍作家として個展を開き、雑誌・装苑で紹介される」だとぅ〜?!私ならそのトロフィーで100回くらい美味い酒飲んでるわ。
それでも、清さんは渇望し続けている。何者にもなれていない、という。その頑なさがもう既に才能だろ、と私のごとき怠惰な人間は思う。
それでいて、清さんは生活人、特に母としての真摯さも突き抜けている。
私は、母とは、なるものではなく、在るものだと思っている。私は、だ。私だけかもしれないけど、ということで読んで欲しいが、「母で在ろう」としないと、私はすぐ母人格が抜けてしまう。
予防線張ったが、そういう人はそこそこ居るのではないかと思う。マイルドに言うと、母性のみで母でいられる訳ではなく、ある程度役割として母を担うという気概でいるのではないか、と思う。そう、気概がいる。
「夢みるかかとにご飯つぶ」では、清さんの母としての愛が溢れている。愛することに真摯でありながら、そこに辿り着くまでの、母になるまでの心の変遷も克明に記されている。
育児に追われ何も出来ないまま(そんな事ないよー!!)終わる1日に焦りつつも、その1日を愛している。焦る清さんも、愛する清さんも、どちらも本物で、その感情が突き抜けていて、それに真摯に向き合っている。
どちらかに偏ってしまった方が、楽だと思う。こちらの道は諦めてしまったけれど、そういう人生もいいよね、と思った方が、楽だ。
というか、母であることは、母になった以上基本諦めることは不可なので、多くの場合「夢みる」を手放すことになる。
清さんはどちらも手放さず、とてつもない握力で、どちらも掴み続けている。
その姿は、両の手を握りしめる姿は、ファイティングポーズをキメる矢吹丈のようだ。
「夢みるかかとにご飯つぶ」は、スポ根なのだ。少なくとも私にとっては、そう。
清さんは、ご自身が矢吹丈だということに、気付いておられるのだろうか。
どれだけパンチを受けても立ち上がる、最終回ホセ・メンドーサ戦の矢吹丈。対戦相手ホセすら引いちゃってた、あの生命力。
清さんは、もう既に何者かーー母でありながら何度でも立ち上がる矢吹丈こと「清繭子」になっていることに、気付いて居るだろうか。
みなさんに読んで欲しい、と思った。
この、ヒリヒリするような人生を現在進行形で駆け抜けている、夢みる女性の話を読んで欲しい。
その渇望に、打ちのめされ、時に涙が出てくると思う。
お茶菓子つまみながらなんて読めない。
読みながら、スーパーマーケットを疾走する清さんの姿が頭に浮かんだ。清さんの視界の中では、かまぼこの鮮やかなピンクと、豆乳の黄緑と、風呂洗い洗剤のレモンイエローが、車窓から見た夜景みたいに線になって混じり合い、輝いて見えるんだろうか。
そんな世界を見ていたら、走ることをやめるなんて、出来ないのかもしれないな。