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「町中華屋のマイコー」を「ゲイカップルの小説」と表現することへの違和感

「町中華屋のマイコー」のあらすじを書くときに思うこと

文フリの準備をしていく中で、もう何度も作品のあらすじを書いてきました。
一度文面を固めてしまって、それを使いまわせばいいのですが、前に書いた文章を引っ張り出すのが面倒なのと、その文章が出来が良かったわけでもないので、都度書いています。

その度に、ひとつのことを思っています。

私はマイコーを「ゲイカップルが町中華屋の全メニュー制覇する話」と書くことに、どうしても抵抗がある。と。
一方で、この作品を「ほのぼのBL」「エロ無しBL」と表現することにはさして抵抗はありません。
その理由をうまくつかめずに居ましたが、ようやく昨日、自分の抵抗感や違和感の理由に気が付きました。このことは、私がこの1年間書いてきたことと強く結びついているな、と思ったので、文章にしておこうと思いました。


彼ら――ミライくんとユキさんは、「男性カップル」ではある

あらすじを書く時、主人公ミライくんは「男子大学生」、ユキさんは「ユキさん(ユキヒロ)」あるいは「彼氏のユキさん」と表現し、冒頭で男性同士のカップルであることが分かるような書き方をしています。
それならユキさんを一発で男性だと分かる呼び名にしなさいよ、と何度も思いましたが、私は基本的に思いついた名前を変えたくないので仕方ないのです……なお、その件は本編で軽く伏線回収して納めました。
脱線しましたが、要は彼らは確かに「男性同士のカップル」です。
よって、ボーイズがラブしているので、マイコーはBLです。


それでも、彼らは「ゲイカップル」かというと、分からない

私の認識では、ゲイカップルとはゲイ同士――同性愛者同士のカップルの事だと思います。
作者である私には、彼らの属性を決める権利が一応あるということで書きますが、おそらくユキさんはゲイでしょう。それは、文中でいくつかの、男性との恋愛経験を匂わせる描写があるからです。でもそれも、おそらく、です。私の預かり知らない所で、ユキさんは女性と付き合っていたかもしれない。
(私の、登場人物への距離感はそんな感じです)

一方、ミライくんはどうなのか。これは、分かりません。
というか、ミライくんはゲイなのか分からないということ自体が、物語を貫くテーマでもある……って言っていいんだろうか。まぁ詳細は書くほどの事でもないので書きませんが、彼自身も自分について「今男性が好きで、男性と付き合っている」という情報しかない、ということです。

「男性同士のカップル」が「ゲイカップル」であると定義されるには、両者が自身の性的指向をゲイ(同性愛者)であると認めている必要がある、と考えます。つまり、ミライくんが自分の性的指向が分からない――分類するならば、クエスチョニングである、そしてそれが物語のテーマである以上、私が彼らを「ゲイカップル」と表現してはならないと思いました。

先日こちらの記事で、彼らを「ゲイカップル」と表現しました。それは、売り方の分かりやすさを示す=世の中で流通量の多い表現に揃える、という意識で書いたのですが、やっぱりしっくりこなくて、書き直しました。

ちなみに、同じく文フリで販売する「針を置いたらあの海へ」、こちらはもっと踏み込んで性的指向について取り扱っています。2つあるテーマのうちの一つで、物語後半の2回の大きな山場、カタルシスとも言える場面のうちの一つにも繋がります。
だから、ぜひ読んで頂きたいなぁという気持ちがあります。


分からないことに悩ませつつ、分からなくてもいいとも思っている

私の個人的な趣味で、自分とは何かということについて悩み続ける青年、というものが大好きなので、基本今まで書いた小説はそれがテーマになっていると思います。だからミライくんにも悩んでもらっている。
あるいは、現実に同じ状況にある人、自分の性的指向や性自認が分からない人も、悩んでいる、かもしれない。
いっぽう、私自身は、そこについてあまり悩んでいません。悩んできませんでした。
私はこれまで恋愛感情を持った人の9割は男性ですが、1割は女性です。どちらに対しても、同じ感覚の恋愛感情を持ちました。その点について、一瞬も悩んだことがありません。むしろ、「あんな素敵な人を性別関係なく好きになれてよかったなぁ」という感覚で居ました。
この感覚が普通だとか思いません。正しいとも間違ってるとも思いません。

男性にも女性にも恋愛感情を抱いたことがありますが、じゃあ私はバイセクシャルなのか? というと、それも何だか違う気がします。いや、自分の性的指向をこうだ、と断定する必要性をその時は感じなかったのです。それは、私の恋愛の軸足が異性愛にある、と自覚しているからかもしれないですが。
何度も書きますが、それが良い・悪いを言いたいわけではないのです。
こういう感覚の人も居る、ということです。


事実ベースでラベリングすることで、見えなくなるものがある

上述の通り、私は「自分とは何か」について悩むことを、美しいと思っています。生きる人の姿だなと思っています。
仮にミライくんがここにいたとして、彼をゲイだとラベリングすることは可能です。事実上、今彼は同性の恋人がいるから、同性愛者と呼ぶこともできる。だけど、彼をゲイと見なしたとき、ミライくんが8万5千字かけて向き合う(いや2万字くらいは中華料理と向き合ってますけど)、「自分とは何か」という道程が、まるっとなかったことになってしまう。
これは物語上の事ですが、現実でも同じではないかと思います。
いや、本人が「私はゲイだよ」と言うのであれば、そうかぁと受け止めますが、そうでない場合に、事実ベースで相手の性的指向をラベリングすると、その人の一部分を見えなくしてしまうのではないかと。
ガラスの瓶に大きめのラベルを貼ると中身が見づらいのと同じ感覚かもしれません。

また、それは性的指向に限らずだと思います。
リケジョとか、ドボジョとか、ワーママ、イクメン。そういう分かりやすいラベルに隠れてしまうものが、大なり小なりあるのではないかな、と思います。

言葉狩りしたいわけじゃないんですよ。
どこまでもあいまいなままにしか出来ないものごとがあったり、人によっては「あいまいであること」そのものが心地良かったりするんだよなぁ、という気付きを、ちょっと誰かに聞いて欲しくて、この文章を書きました。

悩み続けるミライくんが愛おしいです。
マイコー初稿(レオが主人公だったころ)で、

「自分の性的指向が分からない。でも、分からなくてもいい。何故ならそれが分かる時、自分は誰かを好きになるという経験をもう一つ重ねていることになるから」

といった一文を入れていました。
これはかなり、私が思うところのベースにあるな、と思いましたが、現マイコーではそれを差し込むストーリー上の必然性がなかったのでカットしました笑
ミライくんがユキさんだけを好きでいる限り、ミライくんは自分の性的指向の決定打は得られない(いや、性的魅力のみを第三者に感じて『あーやっぱりそうかぁ』と思うことはあるかもしれませんけど、それも分からないですよね)
それは私的にかなりグッとくるピュアさなので、引き続き分からなさに向き合ってて欲しいなって思います。頼むわミライくん。


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