死について、とっ散らかった考察
音楽家の福間創さんが亡くなった。
https://tvfan.kyodo.co.jp/music/news-music/1309647
P-MODELはかっこよかった。ヤプーズも好きだった。
病を得てから、日常的に死と隣り合わせの日々を生き切ったのだとしたら、それだけで偉業を成し遂げたと言ってもいい。
盟友の平沢進氏の追悼メッセージの中に、こんな1文があった。
『本来なら『福間は隣接次元に漏れた』と表現するところだが、彼が抱く彼なりの宇宙観と彼なりの生命観による然るべき領域へと移行したのだと信じる。』
ごく近しい身内に、死のことを考えると恐ろしくていたたまれなくなる、という人がいて、つい昨日も偶然そのことについて話していたのだが、
彼女にとっての死というのは『中が見えない箱に手を突っ込めと言われる恐怖』『この先がどうなっているかわからないところに目をつぶって飛び込めといわれる恐怖』だ、と言っていた。
私は生まれながらのボンクラなので、死が計り知れぬものだとわかりつつも、それが自分自身の終わりだとはあまり思えなくて、むしろ行ったことのない遊園地に赴く時のようなワクワクした気持ちさえある。肉体を捨て去った先にある自分とは如何なるものだろう、それはきっと今よりも素晴らしく自由な世界に違いない、と根拠なく信じている。
私も彼女も死んだことはないので、いったいどちらが解なのかはわからない。
平沢進氏の言うところの隣接次元は、どんなところを想定しているのだろう。しかし彼は続けて、『彼が抱く彼なりの』という言葉を繋げている。
ということは、死と名付けられたあちら側の様相は、死するその人が思い描いたそのものによってコントロールされるものなのだろうか。
福間さんは、ちょっとあっちへ先に行ってくるね、とも感じ取れるようなカジュアルなメッセージを遺して逝かれた。この瞬間やってくるかもしれない死と共に、何年も生きた方の言葉だから、本当にそのような実感を持たれたのだろう。
願わくば、日常の中で時たま不意に訪れてくる死の恐ろしさと、抗い闘っている彼女に伝えたい。
我々よりほんの少しだけ死に近しい方々が、その向こうの世界について真摯に向き合い、考察し、多分苦しみや絶望もあった先にたどり着いた死生観が、シンプルで清々しいものであったことを。
恐れ嘆くことは必要なプロセスだが、無闇に増幅させるべきではない。
死は至るところに普通にあり、明日の私にいきなり降りかかる可能性は薄くとも、隣り合う可能性は高い。
そんな身近に繰り返されるものに対しては、せめて虚勢であってもフラットな態度でいたい。
死が『自分が抱く自分なりの宇宙観と自分なりの生命観による然るべき領域へ移行する』ことであるならば尚更だ。
R.I.P
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