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いつも異性との距離感を間違えるのだけど

全くどうしたものか、私はまた同じ間違いを犯そうとしていると気づいて、立ち止まったのは昨夜のこと。私はどうも他人との距離感を、とりわけ異性との距離感を間違える。

私の世界にはふたつしか箱がない。すなわち「大切な人」と「興味のない人」。「大切な人」に分類された人は、当然分け隔てなく接する。世間一般で言えば家族のような感情に近いと思う。ちなみに、「興味のない人」はただの有象無象(たまにしゃべる)である。

「大切な人」の分類に対する態度は非常に親密だ。もっと具体的に言えば、ふたりで食事やお出かけもするし、互いの家の行き来も旅行する。手が触れるとかハグ(別れ際などに親愛を示す意味として)とか、そういう接触も他意はなくできる。

それらを外観の性別関係なく、つまり異性に対してもするわけだから、世間一般から言えば「やべえ奴」確定だ。彼氏の周りにいてほしくない女の指折り3つに入ること請け合い。まだ自分が世間一般からはみ出していると気づいていない頃は、友人(男性)の彼女から敵視され「なんで?」となっていた。たぶん彼女たちからすれば目障り極まりない、天然を装うくそヤバ女くらいには思われていただろう。その節はごめんなさい。

歳を重ねるごとに「痛い目」を見る(つまり友人として信頼のもとで接していたのに気づけば恋愛の情を向けられていて脱兎のごとく逃げる、遊び人認定をされる、思いがけないトラブルが発生してもそれを誘引した私が悪いとされる等)ことが増え、そのたびに傷つき傷つけ、なにが問題なのか分からないまま友人を失い、ようやく「アロマンティック」という概念と出会えたのはここ数年のこと。

なんだ、私は人間として何かが欠落していたわけじゃなかったのか!

そう喜んだのも束の間、結局名前が付いたところで世間の認識も変わらなければ私のセクシャルも変わらない。今でも「好きな人の好きなものを知りたい!」の感情が分からないから私の趣味に付き合ってもらうのは恐縮するし、恋愛の話題になれば壁と同化するしかないし、「好きだ」と告げられ「ありがとう」と返答して変な顔をさせてしまうことも多い。

男女の大まかな執着地点は恋愛であり結婚でしかなく、世間はそれを当然のように求める。大抵の場合には、異性が近づいてくるとき、なにかしらの期待がある。極端に言ってしまえば、それに応えれば関係のステップアップ、拒否をすればサヨナラだ。

昨日、異性の友人と食事をしたときにうっかり「どうもTV線が壊れていて、私じゃ直せない」と話をしてしまった。「もうすぐ引っ越すのだけど大きな家電を動かせない」とも。彼はそういったことに器用な人だったので、じゃあこの後直しにいこうかと申し出てくれ、私もうっかりお願いした。食事のあと、私が住む1Rのアパートとにやって来た彼は、あっさりと直してくれた。

現金な私は直してもらった後に、あっと思った。密室に男女ふたりきりだ。警戒が緩んでいたとは言え、久々に「やってしまった」と。Aロマを知り、私の感覚と世間に広く知られている感覚とでは差異があると気づいてから、なるべく注意していたのに。

けれども彼は直ったことを確認すると、それじゃあまたと足早に去っていった。私は安心とは別に違和感が芽生えた。同性の友人であればお茶でも出すが、私達はそうもいかないという暗黙の了解がそこに流れていたから。

夜になって彼からLINEがきた。「引っ越しのときは手伝うから声かけて」。たぶん、それは優しさからくるものだ。というか、明らかに「手伝って」と言わんばかりの話をしてしまった私に気を遣ってのことだと思う。

いつもなら「助かる!」とお願いするのだけれど、はたとこれまでのここで頼ってしまうと、これまでのように恋愛かサヨナラかの2択をいつか迫られるような気がした。

あるときから、異性と仲良くなると「頼むから告白なんかしないで、恋愛感情を向けないで」と祈るようになった。何様だよ、高慢だと思うけれど、でも、そうやって予防線を張らないとまた傷つく。疲れる。友人を失うというのは辛い。大人になればなるほど尚更。

もやもやが膨らんで妹に電話したら「それは隙を見せすぎているあなたが悪い」と言われた。

つまり、そういうことなのだ。いくら私の世界が「大切な人」「興味のない人」の二分しかなくても、相手は又は世間はもっと細やかで複雑なグラデーションの中で生きている。きっと「友人」枠のなかでも、心を許す度合いの違いをちゃんと使い分けているのだ。私がそれを出来ないだけで。

「引っ越しの手伝いは大丈夫、ありがとう」、そう返した。

世間は「恋愛が出来ない・不要な人」をいないものとしがちだ。「出会ってないだけ」「人として未熟」あるいは「そうやって遊び歩いている」と。

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