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私がフリーランスカメラマンになるまでのお話vol1 なんちゃってバックパッカー編

初めまして。
フリーランスカメラマンの広岡雅樹と申します。

かれこれ23年、フリーで活動させていただいてます。
始めた当初はこんなに長く出来るなんて思いもしませんでした。
ひとえに素敵な出会いとご協力くださった皆さまのおかげです。
心よりお礼申し上げます。

私は主にタレントやモデル、個人様などの人物撮影を中心に料理や商品、動画にドローンでの空撮など、おおよそ写るものは心霊写真以外なんでも楽しく撮影させていただいてます。

私がカメラマンになれたのは奇跡みたいなもので、
娘にも「ラッキーだったね!」と言われてしまう始末です。
まあそれなりに努力はしたのですが、娘の言う通りだと思います。(笑)
そんなラッキーパンチがあたっちゃたカメラマンの人生が誰かの参考になれば幸いです。
これからつらつら書いて行きますのでよろしくお願いします。

私がそもそも写真で食べていけるようになりたいと思った最初のきっかけは、
写真の専門学校に通っていた1990年頃に、留学生のドン君に誘われた
タイ旅行からです。

初めての海外。まだ18歳の私には家族の居ない友人とだけの2ヶ月近くにわたる旅行は人生を大きく変えるとても刺激的なものでした。

いつもの生活をしていたら決して出会うことのない人々との濃密な交流は
「自分も何かを成し遂げたい!」と思うには十分過ぎました。
刺激を受けた私はNikonのF3を肌身離さず持っていたのでシャッターを切り続けました。

帰国後もタイで仕入れたアクセサリーやバックなどを表参道で路上販売(1991年当時は可能でした)をしたりして、
お金の作り方、コミュニティでのパワーバランス、商品の魅力の伝えかた、などなど実践的なことを学びました。

正直、当時は写真のこと忘れてました。(笑) 
あ、学校も辞めちゃいました。他の学び場が楽しかったのです。
今思えば反省点かも。。。

その後も、お金が溜まればタイやインドネシア、沖縄、北海道、
国内の「祭り」に行き更に多くの文化を知りました。
(当時は「フェス」って言葉は無く「祭り」って言ってました)

祭りで知り合った旅人Nさん(50代)
が与那国島に家持ったからおいで〜
と手紙をくれたので、2ヶ月ほど行ったりもしてました。
その方は、暑くなったから北海道に行き、寒くなったから沖縄に行くって生活を何年もされてました。
元ラーメン屋店主で妻子がいたとかいないとか、、、? 今も謎です。

当時、島には内地から移住している方が数名いて、きび畑や陶芸、カレー屋などを営んでいました。
厳しい環境下でも信念を持って自分の道を歩んでいる方々のお話に、
まさに孤軍奮闘とはこのことか とちょっとビビりましたが、
大変刺激を受けました。

この沖縄旅はここでは書ききれない面白エピソード満載なので
いつか書きたいと思います。

旅では良い経験ばかりでは無く、いっぱい失敗もしてます。

タイの小さな島で帰りのエアチケットを燃やしてしまったり、

バンコクの安宿で荷物を全部取られた人と一緒にオロオロしたり、

インドネシア縦断時の乗り合いバスの中で全財産スられたり、

ジョグジャカルタで街のチンピラに絡まれたり、

バンコクでインドネシア出身のおばはんに言い寄られたり、

祭りの帰りに車のハッチバックが開いて荷物ばらまいたり、

まだまだ色々。。。。

でもその度に解決方法を考え、実行してピンチを乗り越えたのも
また良い経験でした。


つづく。

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