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強さとは、自分が加害者になる可能性と向き合うこと

そう、それらはある金曜日の夜、たった1時間半の中に濃縮されていた。
手にしたスマホをいじり、テレビを眺めて一息つく、そのなんでもないような時間の中に。

3つの話に出会った。
すべて、“命”について考えさせられるものだった。


ひとつめは、広島の原爆の話。
田中泰延さんの「Hiroshimas」という記事を読んだ。

記事は、広島にルーツのある泰延さんが、広島を訪れるところから始まる。
広島平和記念資料館を訪れた一行は、言葉を失う。

印象的だったのは、記事の読者が「原爆は天災とは違うのだ」ということを再認識させられる点。原爆はまぎれもなく、人間が、人間を、死なせたのだ。

その事実は、今を生きる私たち一人一人が、二度と同じことを起こさないという強い決意をもち、絶え間ない努力を続けていかなければならないのだと、その覚悟を問うてくるようである。


ふたつめは、news zeroでの米津玄師さんのインタビュー。
コロナ禍で、どんなことを考えながら曲作りをしているのかという話になった。

米津さんは言う。(ニュアンスを思い起こして書いています。実際の言葉とは異なります。)
コロナ禍では、感染した場合に自分から人にうつす可能性がある、そしてうつされた人は亡くなってしまうかもしれない。そんなことが身近に感じられる世の中にいます。私たちは、人の生を、ある意味においては邪魔したり阻んだりしながら生きているのかもしれない。

そしてこんな話もしていた。
自身の楽曲が、昔の自分のような「世間からのはぐれ者」を傷つけてしまう可能性があることを思い、迷ったり悩んだりすることがあります、と。


広島の話と、米津さんの話。
日常生活の中で改めて命について考える機会は少ないし、ましてや自分がそこで加害者になる可能性に思いをはせることなど、皆無に等しい。

でもー。戦争があった時代には、実際に起きていたことだ。そして現代のコロナ禍でも、自分が感染を広げる一因になる可能性は、誰しもに当たり前のように存在している。


そして、最後、みっつめの話。
少し毛色は異なるが、お母さん牛をおいしく食べてもらおうと努力をしている畜産農家さんの話だった。

私たちの食の背景には「命をいただく」という行為があるはずだが、それ自体を連想させてしまうと、お肉は売れづらくなる。そのため、お肉を売る場面では「かわいそう」という気持ちを湧かせるような見せ方は避けた方がいい、とも言われるのだそう。

私も毎日のように肉を食べているが、そのありがたみについて考えることはほとんどなかった気がする。だから、改めて言葉にされて、はっとした。

加害者とまでは言わなくても、私たちはとっくに命をいただきながら生きてきたのだった。


これら3つの話を目の当たりにして、私は涙していた。
命は今ここにも存在していて、まぎれもなく身近に存在するもののはずで、だけど、私が命について改めて考えて涙するのなんて、いつぶりだろうか。

きっと私たちは、知らず知らずのうちに、考えないようにしているのではないか。考えることは、心が大きく揺さぶられること。見たくない現実にも目を向けること。本当は目をそらしてはいけないことに、向き合うこと。

私は思う。本当の強さというのは、見たくないものを見ないようにして、平気な顔をして笑っていることではない。(自分のペースでいいから)向き合うべきものから目を背けず、向き合う勇気を持つことこそが強さだ。

涙を流すことは、弱い人間であることの証明ではないと思うのだ。本物の強さをもち、しっかりと向き合っている人間だけができることだから。

そして、米津さんのように、自分が人を傷つける可能性に対しても人一倍向き合っている人が、本当の意味で人を引き付けるのだと思う。私は、そんな人にこそ"表現"をしてもらいたいと願う。

私も、逃げずに生きていきたい。
強さとは、あるいは、自分が加害者になる可能性と向き合うことかもしれない。