想いや言葉を滅していく戯論寂滅の境地
反省していることがある。成田悠舗氏についてのnoteで、コンテンツの中からコンテクストだけ取り上げて批評するのはよくないということを以前書いたのだけれど、そんな主張って、「正義」という旗を掲げている人たちの行為と同等に卑しいことだ。
多くの人の間でさまざまな意見が出てくると、個々が主張する「見解」が次第に定まってくることにもなる。そうなると、互いに見解が対立し論争も起こってくる。
ブッダは、このような思惟や言語の広がる世界を虚妄であると説いた。そしてこれらをプラパンチャ(戯論)と呼んだが、それは「妄想」や「虚妄」という意味でもある。
そしてそのような虚妄な論争にかかわらないようにと、弟子たちに教えていて、「有る」と「無い」のいずれにもよらない道を説いたと言われている。
ものごとの存在について、わたしたちが意識し、識別していくと、それらものごとの有無が問題になってくる。
つまりいろいろなものごとの「有る」「無い」を論じ合うことになる。その対象は「不平等」だったり「格差」だったり「民主主義」だったりする。
そのような問題について主張することが、仏陀のいうところの戯論、あるいは妄想であるならば、そこには関わらないことが懸命だ。
そこに関わるのは自分に慢の心があるからだろう。
深く反省する。
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