
心を沈めるお稽古
『天台小止観』とは、西暦6世紀頃、中国の『天台宗』の創始者である『智顗(ちぎ)』 (538年~597年)という人物がまとめた、入門向けの「座禅の講義録」であり、特に『止観』という瞑想方法について詳しく扱っているもの。
「止」とは一切の迷いから離れた究極の精神状態である禅定のことであり、
「観」とは迷いを生みだす心そのものを冷静に観察する智慧のことである。
この二法は車の両輪、鳥の両翼と同じで、どちらか一方に偏ると、誤った考えに陥ってしまうことになる。
ただ坐禅の修習を専らとして、智慧を修習を怠っていると、さとりを得るどころか誤った考えばかりが起こり、迷いの世界から抜け出すことができない、ということだと思う。
それでは、正しい智慧である「観」の修習は、どのように行えばいいのか。
金倉寺での教えによると、止観はさまざまな方法で修習することができるが、坐禅が最も優れたものであるのだから、坐禅に即して止観を修習するのがいいとのこと。
ただただ坐禅を修習するのではなく、心の動きをしっかりと観察しながら坐禅を行いなさい、と教えている。

またその方法として、禅定の段階に応じて5つの例を挙げられている。
1. 初心のうちは乱れがちな心を打ち破ろうと止観を修習する
2. 心の浮き沈みを正そうと止観を修習する
3. 心の動きに合わせて止観を修習する
4. 禅定中の微細な心の誤りを正そうと止観を修習する
5. 禅定と智慧を均整にするために止観を修習する
「止観」は、元々は、仏教の原点に近い『阿言経』にまで書かれている瞑想方法で、『止』と『観』という二つの行為に分けられる。
『止(サマタ)』は思考を止めるということであり、『観(ヴィパッサナー)』はそこから目の前のものを「観る」ということである。
書籍『「止観」の源流としての阿含仏教』に書かれている『阿言経』の内容を引用すると、以下のように説明されている。
修行僧らよ。これらの二つは明智の部類に属する法である。
その二つとは何であるか?
「止」と「観」である。
修行僧らよ。「止」を修したならば、いかなる目的を体現するであろうか? 心を修するのである。では、心を修したならば、いかなる目的を体現するであろうか? いかなる貪欲でも断ぜられるのである。「観」を修したならば、いかなる目的を体現するであろうか? 「智慧」を修するのである。では、「智慧」を修したならば、いかなる目的を体現するであろうか? いかなる無明でも断ぜられるのである。修行僧らよ、貪欲に汚された心は解脱しない。無明に汚された「智慧」は修せられない。
修行僧らよ、このように、貪欲を離れることから心の解脱が起こり、無明を離れることから「智慧」の解脱が起こる。
中国の「天台宗」の創始者である「智顗」は、『法華経』の研究と並行しつつ、この「止観」という瞑想方法にも着目し、『天台小止観』や『摩訶止観』といった講義としてまとめた。そして、
この「智顗」の講義を、弟子が講義緑として残し、それが「座禅マニュアル」として後世に伝えられるようになった。
この内の『摩訶止観』は、「止観」について細かい部分を扱いつつ、「止観」から発展する思想まで深く掘り下げた、難しめな「詳細版」だが、『天台小止観』は、初心者でも分かりやすい部分をまとめた「入門向け」 のものだ。
『天台小止観』は、元々は中国のものであるため、漢文で書かれているものであるが、広く伝えられている座禅のマニュアルであるため、現代語訳も出ている。

いいなと思ったら応援しよう!
