ウィン・エドワーズの群淘汰説
群淘汰を提唱したウィン・エドワーズによる1962年の著作” Animal Dispersion in Relation to Social Behavior”を読んでみた。学生時代に群淘汰を批判するハミルトンやGCウィリアムズらの論文は読んだが、ウィン・エドワーズの論文は読んだことがなかった。
1.1序説で、動物の移動分散が、資源量と個体群密度の変化によってひきおこされるという考えを鳥研究者のラックの“The natural regulation of animal numbers”からの引用しつつ始めている。
1.2. 資源に応じた最適密度で、「理想的には、生息地は、生物が窮乏に陥るほど混雑したり、他の部分が不必要に空になったりすることなく、その生産性や収容力に関連した最適な密度がどこにでも存在するように作られるべきである。」
そして、人間の漁業活動を例に、乱獲による漁業資源の枯渇の解決には、「おおよその最適な収量を決定し、それに一致させるための労力を制限すること」とし、「人間が魚やクジラを捕食するのと、他の捕食者が他の獲物を捕食するのとでは、原理的に何の違いもない」と動物全体に一般化している。そこから、「動物数の自己制限という一般的な仮説」が急速に支持を得ているとする。さらに、「個体数密度と利用可能な資源との間に好ましいバランスを築き、それを維持するためには、体の内部環境を調節し、変化するニーズに合わせてそれを調整する生理学的論理システムに類似した、多くの点で制御システムを動物が進化させることが必要であろう」として、動物集団でもホメオスタシスという用語を使うのが適当だとしている。
次節1.3では、最適個体数へのホメオスタシスについて、なわばりを例に挙げて論じている。
1.4節では、集団のホメオスタシスを維持するために2つのプロセスが必要だとする。それらは、バランスが崩れたときに回復する手段と、外部条件の変化によって新たなバランスが必要になったときにそれを見つける手段である。前者で重要な課題は個体数と資源のバランスであり、「個体群には(高等動物に限って言えば)個体数密度を調整するのに必要な力が備わっている」。そして、個体数と資源量の変化に対応できるような情報能力が必要だとする。
外部条件変化の指標となるのがライバル同士の自由競争だとする。すなわち、「需要が旺盛であればあるほど、その報酬を得るために必要な気概と努力の対価は高くなる」。しかし、乱獲を防ぐために、社会組織と社会行動の進化が必要だったとする。鳥のなわばりは社会と正反対で、個体同士が敵対していると思われがちだが、実際には、鳴きかわすことで互いを認識している。
次節1.5は社会進化と群淘汰である。
「自然淘汰は大きく分けて、あるいは完全に2つのレベルで作用し、一方ではよりよく適応し、その結果、仲間よりも多くの子孫を残す個体を選り分ける」というもので、ダーウィンの考えだとする。「もう一方は、ある種と別の種の利害が重なり合ったり対立したりする場合に、一方が他方よりも効率的に生き残るというもの」で、種間淘汰と呼ばれ、「同じ獲物を狙う2つの独立した捕食者、あるいは同じ微小生息地をめぐって争う2つの無関係な種の、相互に対立するニーズが問題になることが多い」
しかし、どちらの淘汰も個体の利益が社会全体の利益に従うような社会的適応を成立させるためには効果的ではない。「しきたりconventionは通常、極めて重要な適応であり、種にとって大きな生存価値を持つ可能性がある」。過密にさらされたときに、繁殖率が低下する例を挙げ、「これは、最も繁殖に成功した個体が淘汰によって個々に有利となり、不妊の個体は絶滅の憂き目に遭うという世界では考えられないことである; 淘汰が社会的集団の利益を促進し、それ自体が進化の単位となるような場合にのみ進化しえたのである。」
「長期的な資源利用において、地域個体群が自己増殖的であることが最も重要であることは明らかである。」「ある集団は他の集団よりも社会的・個人的に適応しており、その集団よりも長生きする傾向がある。」
「群淘汰は、依然として種内プロセスであり、個体群動態に関するすべての事柄において、個体レベルでの淘汰よりもはるかに重要である。」「この2つが相反する場合、群淘汰が勝つに違いない。たとえば個体の短期的な優位性が種族集団の将来の安全を損なうような場合、その種族は衰退し、個人の反社会的な進出がより厳しく抑制された別の種族に取って代わられるからである。」
そして、動物の移動分散や社会性昆虫の不妊ワーカーの進化が群淘汰によってもたらされたとする。
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