サンセット・カフェ
ルイ・アームストロングについての書籍を読んでいると出てくるサンセットカフェ Sunset Cafe。このサンセット・カフェは、まさにシカゴにおけるジャズを象徴するような場所だった。今でこそ「ジャズと言ったらニューヨークだ」などと言われるが、「ジャズと言えばシカゴ」だった時代があった。「なぜシカゴなのか?」という疑問にはいくつかの答え方があると思う。が、その理由の一つにサンセット・カフェがあったことに疑う余地はない。では、このサンセット・カフェとはどんな場所だったのだろうか?ほかの記事で書いたものを少し補足して記述してみたい。
ブラック・アンド・タンのキャバレー
サンセット・カフェ(のちにグランド・テラス・カフェと改名)は1921年にシカゴのサウスサイドにできたキャバレー(ジャズ・クラブ)を指す。経営者の一人のジョー・グラサーJoe Glaserはのちにルイ・アームストロングのマネージャーになる。またこのクラブで、フロア・ダイレクターとして雇われていたのが、「ビッグバター・アンド・ジ・エッグマン」の作曲者のパーシー・ヴェネイブルである。このキャバレーでは、ルイ・アームストロング、キャブ・キャロウェイ、アール・ハインズ、マグシー・スパニア、ジョニー・ドッズ、ビリー・ホリデー、ビックス・バイダーベック、ベニー・グッドマン、エディ・コンドン、エラ・フィッツジェラルドなど数々のミュージシャンが鎬を削った。
ここで気づくのは、ミュージシャンの人種・民族が多様であったことだ。それだけではなく、サンセット・カフェは、当時で珍しい「ブラック・アンド・タン black and tan」のキャバレーだった。このブラック・アンド・タンとは、つまり黒人でも自由に出入りすることのできる場所を意味する19世紀末から使われたスラングを指す。名門と言われているニューヨークの「コットン・クラブ」は白人専用だった(し、名前も差別的だなあと思う)。
観客は「ほとんどは白人だった」(Kenny 1993 p. 22)と言われることがあるが、「黒人と白人の観客が同時にいあわせていた」とも言われている(Brothers 2015 p. 204)。おそらく後者の認識が正しい。というのも、このキャバレーに出演していたクラリネット奏者のバスター・ベイリー自身が「どこもブラック・アンド・タンだったよ[中略]人種的にって意味で、[シカゴの]サウス・サイドは大丈夫だったんだ」と回顧しているからだ(ibid. p. 205)。こうした人種統合がサンセット・カフェ(や、ほかのシカゴのサウス・サイドのキャバレー)が、ニューヨークのキャバレーに比べて、際立っている点である。
参考文献
Brothers, Thomas. (2015). Louis Armstrong: Master of Modernism. New York: W.W. Norton & Company.
Kenney, William Howland. (1993). Chicago Jazz: A Cultural History, 1904-1930. Oxford: Oxford University Press.