「察する」についての考察1
「察する」は気持ちをくみ取るということだけど
決して「くみ取らせる」というスタンスにはならず
発信側は「くみ取ってもらう」
受信側は「くみ取ってあげる」
つまり、受ける側の察知能力によって成立する
受ける側に頼っているわけで
立場的には受け側のほうががんばっていて偉い
サッカーで言うと
パスの出し手は「お願い、受け取って」と願いながら
受け手のかなり前方に速めのパスを出す
受け手は「えー? まじかよ」と思いつつも
がんばって走ってそのパスに追いつく
どっちが偉いかというと
受け手のほうが偉い
「察してさしあげる」と書けばわかりやすいとおり
謙譲語なのね
「あなたが好きです」と言えずに
「月がきれいだね」と言った恥ずかしがり屋さんに対して
へりくだって「察してあげてる」
へりくだる前の本来の立ち位置は
恥ずかしがり屋のほうが上ということ
だけど、そのパスに追いつくだけの走力を発揮したのは
受け手なわけで
実際の立ち位置は
受け手のほうが偉い!
そうか!
「察する」は「思いやる」と同義語なんだな