『一般人間学』第06講まとめby森章吾
■ 思考・感情・意志を霊的に見ると
魂界の基本的な諸力が《共感》《反感》であったのに対し、霊界での重要な視点は《意識段階》である。この第6講を語るにあたり、シュタイナーは7つの意識段階(後述)をイメージしつつ、まず思考、感情、意志を位置づけている。 第01~19段落の内容をまとめると次のようになる。
思考 : 目覚めた意識
感情 : 夢的意識
意志 : 熟睡的意識
しかし、意識段階にはもう一つ別な側面が加わる。 それは《物質的》なかかわりの密度である。 つまり、
目覚めた意識:物質的にはかかわらない
夢的意識 :物質的にやや関与する
熟睡的意識 :物質と格闘する
という三段階である。 標語を付け加えてまとめると以下のようになる。
思考 : 目覚め : リアルな影響なし : 絵に描いた餅
感情 : 夢 : リアルな影響が像になる : 胃が重いと夢も重い
意志 : 熟睡 : 非常にリアルな影響 : 消化吸収過程は意識不能
■ 思考
思考では、意識は完全に目覚めている。こうした意識状態を『神秘学概論』では《対象物意識》と呼んでいる。 思考内容は物質界の像であり、それを考えても何の影響を受けないし、逆に思考内容は物質界には影響を及ぼさない。「絵に描いた餅は明確に意識できても腹の足しにはならない」状態である。
■ 感情
感情の意識は夢的であり、こうした意識状態を『神秘学概論』では《形象意識》と呼んでいる。夢では、実際にリアルな現象と像とがある種の対応を示している。形象意識の一例を挙げよう。
冷たいミルクを飲んで寝たときに、高いところから落ちこぼれそうな物体を一生懸命に押さえている夢を見た。これは、私の大腸から直腸にかけて起きている出来事を確実に反映している。つまり、物質的にリアルな出来事が《形象》(像)として象徴的に表現されている。そして、再度身体的に同じ状態になったとしても、同じ夢を見るとは限らない。別な《形象》(像)である可能性もある。それでも、その像は身体でのリアルな出来事を反映したものになるはずである。この状態が《形象意識》である。
▲ 形象から身体や魂への影響
この夢の例では、身体の状態が《形象》に反映されているが、この逆もあり得る点も重要である。つまり、人が作り上げる形象によって身体形成や魂形成に影響が生じる。もちろん現代人では、こうした影響はすぐに意識できるほどには強くはないにしろ、子どもでは影響が顕著に見られる場合もある。子どもにモラル的なことを身に付けてもらうために、「意味ある物語」を教師が創作する場合がある。ある子どもが持っている性癖が最終的に天に唾する結果になるお話を創るのである。それを聴いた子どもは、そのお話の内容をイメージする、つまりその形象を内的に作ることになる。すると、その形象が子どもの魂に教育的な作用を及ぼすのである。
また、『神秘学概論』の中では、人類がまだ現在ほど固まっていなかった時代には、その人間が持つ形象がそのまま身体的な姿として現れたと語られているし、高次存在が人間に形象を与え、人間はそれに沿って身体が形成されることもあった。
▲ 感情の原因は意識されていない
さて、感情を考えてみると、喜びとか悲しみが意識される。 しかし、その感情の原因を探ってみると、必ずしも明確ではない。 自分の好きなものについて自省してみれば、それはすぐにわかる。自分がそれが好きである理由を言葉では10も20も並べ立てられるだろう。 しかし、本当の理由を厳密に探していくと、その理由は自分でも把握できていない。つまり、その感情が無意識の中から湧き上がるように現れてくる。
あるいは、単純に寝不足であったり空腹であったりすると、その人物が怒りっぽくなることは日常的に知られている。
アントロポゾフィーでは、昼間の意識を持った状態ではアストラル体がエーテル体を食いつぶしながら意識を保っていることが知られている。ところが、そのエーテル体が十分に強いと「快活な状態」が生じし、笑いも多くなる。子どもや二十歳前の特に女子はよく笑う。その原因はこうした強いエーテル体であることが多い。しかし、通常はそのエーテル体のことは意識せず、単に「可笑しい」とだけ感じている。
■ 意志では意識が熟睡している
シュタイナー教育で言う《意志》とは(物質的に)リアルな行為であり、リアルな代謝活動である。幼児の身体が実際に成長したり、食べた米が実際に消化され、手足を動かして地面に穴を掘ることである。 そのリアルな物質的プロセスに《自我》つまり意識は入りこむことができない。というよりは、入りこんでしまったら、それに耐えられない。それゆえ、そこでは眠っているのである。
代謝活動と意識は両立しないし、それは一般的法則と言えるくらいである。 代謝活動が活発であるとき、たとえば食後、病気感染時、骨折修復時、肉体運動後などは、目覚めた意識を保つのが難しい。
■ より高次の意識段階
ここまで、目覚めた意識、夢的意識、熟睡的意識について語り、シュタイナーは第20段落以降、さらにより高次の意識について語っている。
シュタイナーが言う意識状態は次の七段階である。
イントゥイチオーン意識 : 人格霊が持つ意識
インスピラチオーン意識 : 大天使が持つ意識
イマギナチオーン意識 : 天使が持つ意識
(目覚めた)対象物意識 : 思考、人間界
夢的意識 : 感情、動物界
熟睡的意識 : 意志、植物界
熟睡より深い眠りの意識 : 鉱物界
つまり、対象物意識を中心に、上下に3つずつの段階がある。
思考とイマギナチオーンの関係は、この第6講ではあまり詳しくは触れていないので、その部分を次のように補っておく。
《対象物意識》の思考では、思考の対象は物質的外界に向かっている。ところが、思考を物質から解放し、概念的、理念的内容を思考し、思考に意志的な力を投入していくと、思考は純粋思考にシフトし、それがイマギナチオーンに対応する領域になる。
■ インスピラチオーン
インスピラチオーンでは、たとえば人間のオーラを見ることがそれに当たる。 この場合に何が起きているかを見れば、それが高次な形象意識であることは明らかだろう。 オーラでは、たとえば相手の感情の様子を色彩の動きとして感じ取る。 つまり、現実に生じているのは相手の人間内での感情の営みであり、それを色彩という《像》で意識する。この対応関係は形象意識と同じである。しかし、現象と像とがより精密に関係している。
■ イントゥイチオーン(対象との一体化)
イントゥイチオーンは意志領域と関係する、とシュタイナーは述べている。私にとっての「意志を働かせる人間」は、砂場で遊ぶ幼児である。対象(砂)と一体になってそこに働きかけている。 《イントゥイチオーン》を高橋 巖氏は《霊的合一》と訳しておられるが、非常に的確だと思う。
『神智学』の中でシュタイナーは「非常に単純な思考の中にもイントゥイチオーンがある」と述べているので、まず単純な思考におけるイントゥイチオーンを考えてみよう。
私たちが「何かを理解する」というのはどのような体験だろうか?
たとえば、ピタゴラスの定理が書かれた本を読む。しかし、読んだだけでは何も理解していない。すべての言葉を言葉として理解していていも、内容は理解できない。 ところが、そこに記述されている思考の流れを自ら体験しながら読むと、その内容が理解できる。言い換えるなら、自分を無にし、思考の流れと自らを一体にしたときにはじめて理解できると言えるだろう。その意味で《合一》が必要であるし、これをイントゥイチオーンと考えることができる。
第2講では、「表象とは、誕生前の体験が反感によって弱められたものである」と述べられている。このときの《誕生前の営み》とは、肉体を持たない自我が、諸概念、諸理念と一体になること、と考えられる。反感とは何かを引きはなす力であるから、それが働くためにはまず一体になっていなくてはならないからである。
このように意志領域では、対象と一体になることが鍵になる。その意味でイントゥイチオーンでは、霊的な意味で対象と一体化するのである。
ところが、この一体化ができるためには条件がある。まず物質レベルでの一体化を考えてみよう。 自分の動きと、金メダリストの動きを完全に一体化させることができれば、誰もがオリンピックを目指せるだろう。しかし、完全な一体化のためにはパワー、スピード、柔軟性が不足しているのは明らかである。 霊的現実と一体化するためにも、同様なことが生じる。魂的能力においてパワーや柔軟性が不足していると、それと一体化することはできない。したがって、一体化が可能になるくらいにまで魂的霊的に自身を向上させなくてはならない。それが霊視に向けた修行である。
霊的現実との一体化では、さらに問題がある。一体化することで、私たち自身が霊界に対して影響を及ぼすのである。したがって、一体化が可能になった時点で、人が自らの思考を適切に制御できないと、それは「手当たり次第に撃ち放された弾丸」『神智学』のように、あちこちに害を及ぼす。ルドルフ・シュタイナーはこのことを知っていて、私たち人間は宇宙の傍観者ではなく、私たち自身の魂が宇宙的な舞台であり、そこで生起することが宇宙に影響すると第03講で語っている。
■ ゲーテのファウスト第2部
シュタイナーはゲーテの四肢の活動がファウストのイントゥイチオーンに結びついた、と述べている。 この講で明言はしていないが、「イントゥイチオーンをもたらしうる四肢活動」に関連する事柄を後の講で述べている。歩きながら口述筆記すれば誰でも『ファウスト』が書けるわけではなく、言わば四肢が賢くなければ、適切なイントゥイチオーンは湧き上がってこない。
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