朗読に不適な『魂の暦』第01~11週
=== 第11週まで推敲済(2020/05/22)
復活祭;第01週、1912年4月7日~4月13日
この詩の前半2行は春の情景、それに続く2行は人間の魂の反応、特に湧き上がる喜びといった地上的な事柄が描かれています。
後半4行は霊視的出来事です。主語はGedankenで、これはdenken=思考の過去分詞の名詞形で「思考結果」というニュアンスがあります。そしてシュタイナーは2種類のGedanke を述べています。
・人間のものではなく霊的・宇宙的な考えで、形成の力を持つ
・人間の考えで、これは影のような写しであり、形成の力は失われている。
Gedanke=「考え」をこうしたイメージで捉えて、はじめてシュタイナーの言葉が意味をなします。人間の内的活動として体験される「思考」=Denkenと混同してしまうと、ルドルフ・シュタイナーの言葉はほぼ理解できません。宇宙的思考によって生み出された宇宙的な考えには創造の諸法則だけでなく、それを実体化する力(創造的原動力)が備わっています。それに対し人間の考えは、霊的・宇宙的考えを反映してはいるものの、何かを形成する力はありません。それゆえルドルフ・シュタイナーは人間の考えをしばしば「影のような」と表現します。ちなみに、この創造的原動力を体感できたなら認識力は一気に向上します。
この詩では「考え」が狭い個人的な覆いから出て、空間の彼方にまで広がり、その根源である宇宙的「考え」に向かうと表現されています。
そして最後に人間の本質を霊の存在に結びつけます。しかし、霊的修行を行う前ですと、このように結び付いても人間の意識はぼんやりしたままです。逆に言えば、こうした結び付きにおいて目覚めた意識を保つことが霊的修行の目的とも言えます。
ルドルフ・シュタイナーが言う「dumpf」は意識状態をあらわす語で、「目覚めた」や「眠った」の中間の表現です。それゆえここでは「ぼんやり」という訳語を選択しました。
復活祭後;第02週、1912年4月14日~4月20日
復活祭後;第03週、1912年4月21日~4月27日
前半は「私が世界総体に話す」が中心で、後半はその話す内容に当たります。
1行目に Weltenall という語が現れ、これは辞書では「宇宙」とされます。
しかしこれは第2週のSinnesall=「感覚総体」という造語と対応していますので、ここでは「世界総体」という訳語を当てます。感覚界に対する霊界のイメージです。
その「世界総体」への人間自我の語りかけます。
・その語る人間自我はどのような状態か。
・人間自我は何を語るのか。
語る人間自我の様子を見ましょう。
人間自我は、自分自身を忘れつつある。
成長しつつある。
自らの根源的立脚点を思っている。
さて、第2週には「人間伸芽」が霊界で芽吹いたとあります。その芽吹いた場がこの立脚点は関係があると思われますし、さらには人間自我が語る内容から察することができます。
「私は、世界総体の中で、私の真の存在を基礎づける」
と語るのですから、自らの根源的立脚点は明らかに宇宙、霊的世界にあります。さらにその際に、「私の固有性という枷」から自らを解放して、その地盤を地上的な自己ではなく、世界(宇宙)に置くのです。
最後の1行「Ergründe ich mein echtes Wesen.」の「ergründen」は「Grund=大地、土台、基盤」とかに関係する語で、辞書には「徹底的に究明する」とか「根本を極める」とあります。この訳では第2週の「霊界に芽生えがある」という内容と関係させ、「根付かせる」としました。
前半の4行の主語はIch(自我)です。文法的にはそれを文頭に持ってくることも可能です。にもかかわらずシュタイナーは完全に倒置してそれを文の終わりに持ってきました。そこには、地上にあって語りかける自我と、宇宙から地上に向かって成長する人間のイメージが託されているように思います。
復活祭後;第04週、1912年4月28日~5月4日
この詩の主役は2行目のEmpfindung=「感受」です。まずこれについて説明します。ルドルフ・シュタイナーが知覚関連の事柄を述べるときには、3つの段階が区別されます。
1.Eindruck=外にあって人間に向かう「印象」
2.Empfindung=人間が受け取った状態としての「感受」
3.Wahrnehmen=人間が意識化する「知覚」
第4週ではその「感受」の3つの点に注目します。
・感受が語る言葉
・感受の状態
・感受が望むこと
まず「感受」が語る言葉は、「私は私の存在の本質を感じる」です。そこでは「Wesen=本質、存在」という語を2回繰り返します。「私の存在の本質」としましたが、「私の本質の本質」とすることもできます。いずれにしても、「感受」は自分自身の本質を感じ取ってはいます。しかし、それを表現する言葉は持たないのです。
次に「感受」の状態を見ましょう。4月から5月にかけての季節には、日差しは明るく、咲く花が日々入れ替わり、人間も外的印象を感受すること自体に没頭しています。それが、
と表現されます。
そして「感受」が望むことは2つです。
まず思考に対しては、「感受」が持ちえない「明晰さ」に対する敬意を含め、「明晰さへと向けた温かさを贈ろう」とします。
また、自らが光の洪水と一体になっていることをさらに広げて、「人間と世界をひとつにしっかりと結びつけようとする」のです。
復活祭後;第05週、1912年5月5日~5月11日
第4週の中心は「感受」で、そこに光が一体化することが表現されていました。この第5週はその光がメインとなって詩が展開します。そこでのテーマは「光の中に魂の本質が現れる」点で、その状況がいろいろ説明されます。
前半3行では、この光の様子が次のように表現されます。
1.霊の深みに由来する
2.実らせつつ空間に織り込まれる
3.神々の創造を開示する
1.からは、この光が霊的な光と関連することが示唆されます。
2.では、光の実らせる作用に触れ、それが空間と一体になっていきます。物理的な光も、離れたところからでも植物を成長させ実らせる作用を及ぼすことが想起されます。
3.では、この光によって神々の創造が開示されます。これには二重の意味を感じます。まず、光によって森羅万象が目に見えるようになりますから、「光によって被造物が開示する」というイメージです。しかし、それだけではなくさらに深い意味も考えられます。つまり「霊的な光によって神々の創造行為そのもの」が開示するのです。
4行目以降ではこの霊の深みから発した光に、魂の本質が現れます。ただ「開示」に比べ「現れる」は軽い表現で、さらっとそこに出てくる感じです。その魂の本質については次の2つのことが語られます。
1.世界存在へと広がること
2.狭い個人的なものから復活したこと
1.では、魂の本質がこの春の光に満ちた季節に、地上世界の隅々に広がっていくというイメージはすぐにつくれるかもしれません。しかし、それだけではなく、世界存在、つまりあらゆるものの存在基盤にまで広がっています。
「存在基盤」という語から促されるイメージはある種の中心点かもしれません。しかし魂の本質はそこに集まっていくのではなく、「広がって」いきます。いわば私たちを取り巻く周囲全体が「存在基盤」なのです。これは「エーテルは周囲全体から作用する」というシュタイナーの認識と関連するかもしれません。
2.「復活」の原語は auferstanden です。これは非常に強い表現で、主にキリストの復活で用いられます。つまり、キリストの復活に準えるかたちで魂の本質が狭き自分性から復活するというのです。そしてキリストの復活では、キリストが地上だけでなく、霊界にも光をもたらしています。それゆえ前行で魂の本質が広がり向かう世界存在とは、地上世界だけを意味するのではなく、霊的世界も含むはずです。
ここで「狭き」と先の「広がる」が対比されていて、光の中で息づく魂の様子が感じられます。
復活祭後;第06週、1912年5月12日~18日
前半4行の中心は「私の自分=Selbst」です。その「自分」が「固有性」から復活し、また自身を世界の開示であると知るのです。
ここで使われている Eigenheit「固有性」 や Selbst「自分」 は地上的な狭い自分を現す際に使われることが多い単語です。そして、この週ではそのSelbst「自分」がその固有性をいわば克服するのです。そしてその地上的な意味での「自分」を、「時間と空間の諸力の中で」つまり地上的環境の中で、「世界開示」=Wltenoffenbarungとして再発見するのです。
ゲーテがファウストのほぼ最後で述べた「移ろいゆくものはすべて喩えに過ぎない」という一言に表現されているように、感覚界のすべては霊的なものの喩えです。その意味で、地上的なSelbst=自分を「世界開示」として再発見するのです。
この「世界開示」という表現には深い意味があります。世界は高次存在や神の行為によって開示されます。そしてここでは以下のように表現されます。
私の自分が、自らを
時間・空間(諸力)中で
世界開示として見出す
もし括弧部分の「諸力」がなければ、私は完成された被造物と同レベルで「開示」されることになります。しかしこの詩では時間諸力と空間諸力の中で開示されるとありますから、私は私自身がその世界開示のプロセスの似像に相当することを知るのです。別な言葉で言うと、「人間は神の似像」と言うだけでなく、「諸力を操り創造する人間は創造する神の似像」なのです。
後半の3行はDie Welt=世界についての描写です。「世界」と言った後でそれを同格の代名詞で受けて世界について説明しています。その世界が私に「真理を」示すのです。
ここで第6行目と第7行目について、通常とは異なる解釈をしています。この部分のドイツ語を続けて表記すると
Als göttlich Urbild Des eignen Abbilds Wahrheit.
となり、中間部の2格の句「Des eignen Abbilds」について二通りの解釈が可能になります。
・後ろのWahrheitを修飾しているという解釈。
同じ行にあるWahrheitを倒置のかたちで修飾していると解釈するもので、こちらが主流でしょう。すると訳はおよそ「自身のものである似像の真実」になります。
・前行のUrbild (Als göttlich Urbild)を修飾するという解釈。
すると「自身のものである似像の神的な原像として」という意味で、原像と似像が対応するかたちでつながります。言い換えると、ミクロコスモスとしての自分がマクロコスモスに対応しているという真実を世界が示してくれていることになります。
どちらでも意味はさほど変わらないかとは思いますが、後者の解釈の方が対応関係が明確で、訳した際に内容がより明確になります。
復活祭後;第07週、1912年5月19日~25日
前の週では、復活した「自分=Selbst」と真理を開示する「世界=Welt」が提示されました。今週はその両者で生じたせめぎあいが冒頭の2行で表現されています。そして、そこでは「自分」は「世界光」に圧倒されます。
そうした状況で、「予感」に呼びかけ、その登場を促すという予想もしない展開になります。その予感に期待するのは、思考の威力=Machtに置き換わることです。
その思考は、本来なら仮象である感覚知覚の背後で働く実相に迫る役割を担うはずであるのに、溢れ来る感覚知覚という仮象にいわば圧倒され、自分自身を失おうとしているからです。
第04週では、感受が思考に明晰さへ向けて温かさを贈りました。そうした温かさは思考に力を与えるもののまだ潜在的であり、明晰さには至っていないのでしょう。
人生の中には、最高次の思考によっ
6行目の Schein を私は「仮象」と訳しましたが、「輝き」の意味もあり、いわば掛詞になっています。
前出(第02週)の説明の繰り返し:
ここで「威力」と訳したMachtはKraft=力とはニュアンスが違います。威圧感を感じる存在と出会ったときなどに、その相手に「Macht」を感じると言います。また、力学で Kraft 使われますが、Machtは使われません。また逆に政治権力のような意味ではMachtが使われます。
復活祭後;第08週、1912年5月26日~6月1日
復活祭からの第8週目の日曜日はキリスト教ではペンテコステ=聖霊降臨祭(Wiki)です。
そこでは「精霊が炎のかたちとなって」使徒たち降りてきます。そペンテコステの日曜日から始まる週の『魂の暦』で主に登場する概念は、感覚と思考そして私の魂に結びつこうとする神的存在です。神的存在の方から私の魂に結びつこうとするモチーフはまさに聖霊降臨的です。
感覚の方は、神々の創造と結びつきつつ、その威力=Machtを増します。そして、この感覚の威力は思考を夢の不明瞭な状態に落とします。これは一見ネガティヴにも思えますけれど、思考がそうした状態になることには高次の意味があることが最後に述べられます。つまり、現状の人間では神的存在と出会う際には、明晰な思考を保つことはできず、夢状態で出会わざるを得ないのです。つまり高次な霊的体験は、そうした夢的意識状態、言い換えると形象意識でのみ可能なのです。
復活祭後;第09週、1912年6月2日~6月8日
第1行目から第3行目までの主語は世界熱で、骨子は以下のとおりです。
そこに第1行の「 meine Willenseigenheit=私の意志固有性」から謎めいた表現が加わります。これは、意志には個的な部分と個を超えた部分があり、その個的な部分は忘れると私は解釈したいです。そして、世界熱が私に、物質的な部分ではなく、霊と魂存在を満たすというのです。
仮に自然界の生成過程、たとえばバラの生成過程と霊的に一体になり、それを体験できたとしましょう。そのときには、バラの形成法則を体験するでしょうし、形成の活動そのもの、つまりそこでの意志的要素とも一体となって体験するでしょう。しかし、そのときには私の意志をそのバラ形成の意志に沿わせる必要があり、意志の私的な部分は沈黙させなくてはなりません。その沈黙のおかげで私は霊と魂存在に満たされます。
世界熱について述べた後、第3、4行目では光に関連する内容が現れます。
とあります。凝視は schauen の訳語でまさによく観ることですが、ここでは精神眼でよく観ることを言っています。そして「よく観る」ときには、それが肉眼の場合であっても、対象と一体化する体験につながり、自分自身が対象になり切るところまで行きます。
この「光の中で自分自身を失うように」という部分で、熱から光への移行が暗示されます。元素(エレメント)領域とエーテル領域を連続で考えますと、
地エレメント
水エレメント
風エレメント
火エレメント
さらにエーテル領域で
熱エーテル
光エーテル
化学エーテル
生命エーテル
という段階があります。つまり、熱エーテルの領域から光エーテルへの上昇が暗示され、人間はそこに昇って自らを失う必要に迫られます。
最後に「予感」が語ります。
このように熱、光、予感の3段階で「自分を捨てる」モチーフが述べられています。
復活祭後;第10週、1912年6月9日~6月15日
第1、2行では外界の太陽が高みに向かう様子が描かれています。
第3、4行ではその太陽存在によって人間の感情が遠くへと連れ出されることが示されます。
第5、6行では「感受」が明確な意識とは関係しないにしろ、活性化し、私に不明瞭に第7行目を告げています。
「やがてお前は認識する」とまではありますが、何を認識するかは隠されています。最後の第8行になってその何かが明かされるにしろ、それも謎めいています。過去形で、「今、ひとつの神存在がお前を感じ取ったことを」となっています。自分が感じたことを認識するのではなく、他者が感じたことを認識するというのです。ここでは、自他の区別を失い、一体になっていることが暗示されています。
復活祭後;第11週、1912年6月16日~6月23日
この太陽の時間に2つのことが取り上げられます。
1.お前宛に、賢いその知らせが認識されること
2.(世界美に没入しつつ)お前の内で、自身を感情において感じつつ生き通す
つまり、認識されることと感情で感じ取られることが並行しています。ただし、認識的な事柄はAn dir=お前宛に、あるいはお前の傍らでであるのに対し、感情的意志的な事柄である「生き通す」はIn dir=お前の中でとかかわりの密度に差があります。
そして、その認識される賢い知らせが最後の2行です。
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