『一般人間学』レーバー要約解説、05講

■ 人間の魂の活動における意志と思考の関係(1~6)

これまで意志について見てきたわけだが、これは人間の他の部分の観方も豊かにしてくれるはずである。これまでは人間の認識活動、意志活動を中心に、それらを神経系や血液系と関連させて見てきた。ここで第三の魂的活動である感情を検討してみよう。感情について観ることによって、両極である思考と意志をさらに深く観ていくことになる。 魂の活動を完全にパターン化してすべてを分けて考えてはいけない。それらは互いに移行し合っている。自分自身を振り返ってみればすぐにわかるが、意志の中には表象の要素があるし、表象の中には意志の要素がある。意志の中には底流として対極の力である思考があるし、その逆も言える。

■ 魂的活動の身体における現れ(7~15)

魂的活動が互いに移行し合っていることは、こうした活動が現れる身体にも反映されている。眼には神経がつながっているが、血管も通っている。眼には、血管を通して意志的なものが、神経を通して認識的、表象的な要素が流れ込んでいる。こうした二重性はすべての感覚器官に見られるし、意志に関わる運動器官にも見られる。

▲視覚を例に示される感覚プロセスにおける認識活動と意志活動(7~9)
神経によって仲介される認識活動の特別な点は第2講で述べられていたが、その中に距離を取る働きである反感が生きていることだった。たとえば眼には共感的である血液も流れていて、そのおかげで対象を見て吐き気を催さないであるんでいるのだ。共感と反感のバランスを取ることによって、視覚という、客観的で対象に干渉しない活動が可能なのである。そして、共感と反感の相互作用は無意識下にとどまっている。  色彩を研究することで視覚の成り行きについて深く入り込んでいったゲーテは、この共感と反感の相互作用を認識していた。あらゆる感覚活動においてこうしたことが起こるし、それは表象・神経と意志・血液に由来している。

▲人間の眼と動物の眼(10)
#ref (animal_eyes-ok.png,center,nowrap,60%,{鳥の眼、トカゲの眼}) 人間の眼と動物の目の決定的な違いは、動物の場合には血液活動がずっと強い点にある。一部の動物では眼の中に特別な血液器官が存在するほどだ。つまりそれは、動物では視覚において周囲の世界に対し人間よりもずっと強い共感を持っていることを意味する。人間では感覚活動により多くの反感があり、それが高まると場合によって吐き気といった形で意識される。反感によって周囲の世界から分離できることが、私たちの個人としての意識に働きかけている。

▲意志における共感と反感(11~13)
意志発動にも表象活動と意志活動が流れ込んでいる。何かを意志するとき、その意志の対象に対して共感を展開する。しかし、反感によって行為から身を引き離すことができなかったなら、私たちの意志は完全に本能的なものにとどまる。欲する事柄に対する共感の方も、通常は意識上にあがってこない。もしも熱狂、献身、愛(これらは吐き気の対極の力)を実行するとき、そのときだけは共感を意識する。こうして意志によって私たちが客観的に世界と結びつくためには、意志に思考を注ぎ込まなくてはならない。ちなみにこの世界とは、人類全体であり、宇宙プロセス全体だ。意志的プロセス全体やそこに含まれている反感的なものを意識したとすると、それは耐え難いものであろう。たえず反感の雰囲気を感じてしまうはずである。

▲人間本性の秘儀―子どもの成長(14~15)
子どもとともに共感が世界に生まれ出るとき、その共感とは強い愛であり、強い意志だ。しかしそれはそのままで留まっていることはできない。表象によって照らされなくてはならないのだ。それは、本能にモラル的理念を組み入れることによってなされる。誕生時と同じような共感的な本能を持ったままだと、その影響によって動物的に育ってしまう。しかし、そこに反感を注ぎ込むことによって、それに対抗するのだ。それゆえモラル的発達というのは常にいくらか禁欲的だ。つまり動物的なものと闘うのだ。

■ 魂の真ん中に位置する感情活動(16~25)

▲思考と意志の中間―感情(16~17)
感情の活動は思考と意志の間にある。ある境を経て一方からは共感(意志)が、もう一方からは反感(思考)が流れてくる。ある一方が主となって発達するものの、もう一方の極も含まれるという意味で、人間は全体となる。感情は思考とも意志とも同族なのである。感情の中には思考的・意志的要素が共に流れ込んでいる。  ここでも自分のことを少し省みれば、語られたことの正当性がわかる。通常の生活でも、客観的な意志から熱狂や愛による意志に高まると、そこには主観的な感情が深く入り込んでくる。また、感覚知覚においても感情が入り込んでいる。

▲思考内での感情の活動―判断(18~20)
感覚知覚にだけでなく、思考にも感情の営みが入り込む。人間の判断の特徴とはどのようなものかという問いで、哲学的な論争が生じた。ジークヴァルトは、判断においては感情が決定の役割を果たす、と言い、もう一方のブレンターノはそれに反論し、感情とは主観的なものであり、判断とは客観的でなくてはならない、と言っている。しかし現実を見ると、ここでも魂的活動が相互に入り込み合っているのだ。つまり、判断の内容は客観的でなくてはならない。しかし、それによって魂の中で判断が正しいという説得力が生じるためには、感情がそこに共に働く必要がある。  この例からも、正確な概念をえることは、つまり現実から概念を形成するのは難しいことがわかる。

▲最初の対比表(21)
魂にあって、中間に位置する活動である感情は、その本性からして二つの方向に輝き出る。感情とはまだ完結していない認識であり、まだ完結していない意志、つまり押しとどめられた思考、意志だ。それゆえ感情は共感と反感が織り混ざっているのだ。こうしたことは認識や意志の中では隠れているが、感情においては明らかになっている。

▲身体構成における感情の営みの現れ(22)
身体の中で、神経と血液が出会うところでは感情が生じる。感覚器官の中ではこの両者は、感情がほとんど感じ取られないくらいに繊細であり、その感覚器官が他の器官から分離されていればいるほど感じ取られにくくなる。たとえば、視覚においては感情的な意味での共感や反感はほとんど感じ取られない。なぜなら、眼球が眼窩に収まっていて、骨によって隔てられているからだ。しかし、聴覚では感情的なものはそれほどまでには抑えられていない。なぜなら、耳は他の器官とより密につながっているからだ。これはさまざまな意味で、身体全体で行われていることの忠実な像と言えるであろう。

▲聴覚と感情の類似性(23)
聴覚において、単に認識的であるものと感情的であるものとを区別するのが難しいので、それがワーグナーの『マイスタージンガー』で勃発した論争の種になった。聴覚には認識的なものだけがあるとするベックメッサーも、感情的なものが勝っていると誇らしげに主張するヴァルターも、どちらも偏っている。ベックメッサーのモデルとなったのはエドワルド・ハンスリックで、『音楽的に美なるもの』の中でワーグナーの音楽の中にある感情的要素を激しく攻撃した。感情的なものではなく、音と音との客観的なつながりが音楽的なものの神経となっていると言ったのだ。

▲感覚一般論v.s.体験という現実(24~25)
これまで諸感覚についても述べてきたが、それらの相違があまり考慮されていないのは、現代の学問的な考え方があまりに荒んでしまっていることに原因がある。教育改革のためには、特に感覚論を包括した新しい心理学が必要である。しかし、眼、耳、鼻などの活動をまとめてしまうと、「感覚活動一般」という抽象理論以外の何も生じてこない。それよりも必要なのは、具体的に物事を観る能力を伴って、個々の感覚活動を研究することなのである。そうすれば、それらに非常に大きな違いを見出し、感覚生理学一般を研究したがることもないであろう。

■ 結論 : 現実への道(26~27)

魂を観察して洞察を得るには、『真理と学問』や『自由の哲学』で言われているように、人間は初めは現実全体を手にしてはおらず、徐々に世界の中に場を築き、まずそれを克服しなくてはならない、というところから始めなくてはならん。思考と観照(観ること)がお互いに入り込みあって初めて人間にとって真の現実になる。それに対してカント主義では初めから、「私たちの中には世界の単なる鏡像があるだけである」と頑固に規定している。しかし、現実は現象の中には存在せず、少しずつ浮かび上がってくるのだ。現実が完全に現れるのは、死の瞬間だ。  誤った概念を正しいものに置き換えていく努力をしなくてはならない。そうしたときに初めて正しい仕方で授業を行うことができる。

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