朗読に不適な『魂の暦』第12~25週
2019年に翻訳したものを2020年になって全体の一貫性を保つために推敲作業中です。
復活祭後;第12週、1912年6月24日~6月29日
この週の主役は世界の「美的輝き」です。これが私に2つのことを強いてきます。一つは固有の営みである神々的諸力を魂の奥底から開放することです。そして、そこではWelten-flug=世界-飛翔 という造語を使い、さらにentbinden という変わった動詞を使っています。entbindenを直訳するとbinden=結びつけるの逆ので「結びつきを解く」という意味になります。
美的輝きが私に強いるもう一つの事柄は、自分自身の解放です。詩では終盤の3行の順は倒置的で、普通の文体なら「手放す」の行は最後に来ます。「世界の光と世界の熱の中で、信頼しつつ、ただ自身を探しつつ、自己を手放す」のですが、「ただ」が「信頼しつつ」を修飾しているのか、それとも「私」を修飾し、「私だけを探しつつ」なのかは確定していません。森はここでは「ただ私を探しつつ」としました。
正当な進化の途上にある人類は、物質的・感覚的な事柄しか経験しません。熱を感じても、それは熱でしかありません。物質的の背景、つまり実相として存在するものにヴェールがかけられ、体験できなくなっているのです。そして、そのヴェールをかけた存在がアーリマンです。人類の一つの課題は、そうしたヴェールを取り払い、実相を体験することです。そうした実相についてルドルフ・シュタイナーは『霊的実相から見た宇宙進化』(全集132)という連続講演で語っていますし、その第1講で取り上げられているのが、熱の背後にある実相です。
その実相に迫るためには、まず自らのすべてを削ぎ落としていく勇気が問われます。勇気を持ってすべてを捨てますと、人は自分を一本の固まった棒のように感じると言います。さらに自分が勇気の海に漂っているように感じ、さらに「熱」の背景にある実相を体験すると言います。
その実相とは、ケルビームに捧げるトローネの供犠です。9つの天使の位階にあって3番目の高位あるトローネが自らのすべてを捧げ尽くすときに熱が生じますし、すべての熱の背後にはトローネのケルビームへ供犠という実相があるのです。
後半の3行には、そうした背景を感じとれるのではないでしょうか?
復活祭後;第13週、1912年6月30日~7月6日
夏至を過ぎたこの季節に、「私は感覚高みに居る」というのは実感しやすいかもしれません。そして、この高みの対極とも言えるものが二つ登場します。一つは「魂深」でもう一つは「霊基盤」です。「感覚高み」も含め日本語では「○○の✕✕」と表現していますが、言語ではそれぞれ「Sinnes=感覚höhen=高み」「Seelen=魂tiefen=深み」「Geistes=霊gründen=基盤」という造語による一単語です。しかも「魂深」は闇ではなく、炎が焚き上がるイメージです。極端から極端へのかなり激しい表現です。
そして、神の言葉の中に重要な語が登場します。「霊基盤」です。ルドルフ・シュタイナーがこう言うとき、それは世界創造の霊的な出発点を指しています。まさに霊的宇宙、物質的宇宙の中心です。そこからの思考が世界自体の考えへ結実し、その考えには世界の諸法則だけでなく創造の力も備わります。それゆえ、「光あれ」という言葉で実際に光が生じるのです。
その基盤において、人間自身が霊と類縁であることを見い出せというのです。
人間にとっての究極の目標は、そうした霊の基盤に意識を持って到達することでしょうし、それは容易ではありません。しかしながら、太陽が最高点を迎えたこの時期には、人間はそこに達する可能性を持ちます。ただ、通常では意識は鈍ってしまうのです。
夏:復活祭後;第14週、1912年7月7日~7月13日
「感覚開示に没入しつつ」というのは、明るい初夏の様子の体験から理解しやすいと思います。しかし、このころになると草がぐんぐん伸びる感じは失われ、成長がやや鈍ってきます。それと並行するかのように、私の固有の本質も伸びる力(Trieb)を失います。春先の第02週には、「Menschenspross=人間の伸びる芽」という表現がありました。
植物において、Spross=ぐんぐん伸びる茎(タケノコ、アスパラガス)とTrieb=伸びる茎(ブドウのツル)では、関連はあるものの、勢いが違います。そうしたニュアンスも含めますと、夏至に向かって人間においても伸びる力が鈍り、やがてなくなっていった様子がイメージできます。
さらにGedankentraum=考え夢想という不思議な概念が登場します。これについては、第08週の詩の後半部分に思考と夢状態の関係として表現されています。
つまり、第08週で始まった「思考の夢状態」がこの週ではすでに終わっています。そしてこの終りに呼応して新たなるものが近づいています。それが「感覚仮象の中で」の「世界思考」です。この「世界思考」とは感覚界の森羅万象の大本です。活動である「世界思考」によって実体としての「世界の考え」が生まれ、その「世界思考」には森羅万象の設計図のみならず、それを具現化する力もが含まれています。そうした「世界思考」が私に近づいて来ているのです。
======= 2020推敲済み ========
復活祭後;第15週、1912年7月14日~7月20日
2行目の「霊の織物である世界の仮象」とは次のようなイメージでしょう。
まず私たちにとっての感覚界は仮象に過ぎませんし、その感覚界というヴェールの背後には霊的な実相があります。繰り返しになりますが、人間の魂はアーリマンの影響を受けたがために、感覚というヴェールによって実相を捉えることができなくなっているのです。しかし、その実相は高次存在によるものすごい霊的な働きで、それによって感覚界が生まれているのです。それが「霊の織物」です。
それが私に力を贈るために、私の固有存在を覆ったとあります。この「固有存在」には地上的存在のニュアンスを森は感じます。そしてそこに、力を贈ってくれました。さらにその力とは「私の自我」だったのです。ただその自我は霊の世界には耐えられず、そこに巻き込まれれば気絶してしまいます。それゆえ、周囲から遮断しつつも開放の可能性を持った戸棚(Schrank)の中にあります。この開閉可能という点も重要なイメージだと思います。
復活祭後;第16週、1912年7月21日~7月27日
先週(第15週)の詩では霊の贈り物とは、私の自我でしたし、それは遮断柵の中にありました。そして、その贈り物はすぐに表に出してはならないのです。十分に成熟させるためには季節のめぐりを経なくてはならないのです。夏の明るい季節に、人間の存在はいわば世界の中に広がり出て、そこで朧気な意識において神的存在と結びつきました。そして、力としての自我を受け取りました。その自我がこの後どのように展開し、人間を育てていくか、とても期待に満ちた雰囲気です。
子どもの頃、はじめて花の種を植えたときを思い出してみてください。土を柔らかくし、種を置き、優しく土をかけ、水をやり、つける花を想像しながら眠りにつきます。そして翌朝から毎朝、芽が出ていないかを期待を持って見にいったことはないでしょうか。私はこの週の詩に、そのような雰囲気を感じます。
「自分は育ちうる」という予感、あるいは感情は人間にとっては何歳になっても重要です。学校の最初の授業で子どもたちにルドルフ・シュタイナーは次のような言葉をかけるように勧めています。
君たちのお父さん、お母さんは手紙も書けるし、計算もできるね。
でも、君たちはまだできない。これから学んでいくと、それができるようになるよ。
といった内容です。まず人間の中の「伸びようとする力」にアピールしています。
この第16週の詩では、1年生のように内的な成長を促されてはいないでしょうか。
復活祭後;第17週、1912年7月28日~8月3日-17
この第17週は第8週の聖霊降臨祭的な雰囲気を持っています。クリスマスの祝福が信条や宗教にかかわらず万人に対しての恵みであるのに対し、聖霊降臨祭は「準備が整った人」にだけ関係するからです。もちろんその「準備が整った人」をキリスト教徒に限定することはできません。本来の季節のめぐりの中で、「準備が整った人への高次世界からの働きかけ」がキリスト教とは無関係に存在していて、それをキリスト教がより意識しやすいかたちで人々に示したのだ考えることができます。別な例を挙げれば、イエスの誕生日について聖書には何の記述もありません。しかし、それが冬至の3日後とされたのは、古代からのミトラ信仰があったからと言われています。
さて、第17週の詩では、世界語がいわば勝手に話します。そして、動詞や助動詞の時制を見ますと、それが話す以前に、それを私の魂の根底に導き入れることが許されています。しかも「感覚の門」を通してです。つまり、思考体験ではなく感覚知覚を介して世界語を受け入れます。
その世界語の内容は、「お前の霊の深みを、私の世界の広がりで満たせ、いずれお前の内に私を見出すために」です。つまり、外界で生起する森羅万象を自らの霊の深みにまでまず受け止めるわけです。そしてそのように受け止めたものが元となって、人間はやがて自らの内にその霊的な世界語を見出すのです。
今は、世界で生起する事柄を、全身を感覚器官にして受け止める時期だと言えるでしょう。考えるのはその後です。
復活祭後;第18週、1912年8月4日~8月10日
受け止めた世界語は芽生えだったことがわかります。つまり、世界語とは人間的な言葉ではなく神的な言葉であり、それ自体にその対象を形成する力を内包しています。その意味で、単なる情報ではなく、「光あれ!」と神が語れば実際に「光」が生じる語なのです。
しかし、この「お前の霊の深みを、私の世界の広がりで満たせ、いずれお前の内に私を見出すために」という世界語は人間に向けられたものであり、その点でそれ以外のものに向けられた場合、たとえば「光あれ」とは状況が異なります。人間に向けられたこの世界語が成就するためには、人間の自由意志による協力が不可欠です。人間の魂が真にこの世界語と結びついたときに、それははじめて効力を発揮し始めます。そうした結びつきに向けて、さらに別な準備が必要なことを私は予感します。魂自身を霊の衣にふさわしく形作る力が必要であることを。ただ、その力がどこから得られるのかは、ここではまだ明らかではありません。
ルドルフ・シュタイナーが述べている霊的修行は、すべて自らの魂に向けられています。魂が霊界と共鳴できる状態になると、そこに霊的な内容が恩寵として降りてくるわけです。そうした自らの魂への働きかけを、ここでは「霊の衣」と表現しています。
第15週で霊によって作られた織物が感覚という仮象であったのに対し、ここでは人間が自らの魂を衣へと織りなすことになります。
復活祭後;第19週、1912年8月11日~8月17日
「新たに受け止めたもの」とは何でしょうか。それは、明確な思考で捉えることはできなかったものの、夢状態の中で感じ取った「宇宙語」です。その宇宙語を意味がわからずとも記憶にとどめておくことの重要性を語っています。こうしたモチーフは、ルドルフ・シュタイナーの授業に関する助言、「理解できないことを学ぶことも大切」という言葉を思い起こさせます。
さて、冒頭のGeheimnisvoll は「包み込む」を修飾します。この「神秘に満ちたやり方で、記憶によって包み込む」というのも不思議な表現です。単に記憶するではなく、記憶によって包み込むのです。
また、第15週では「世界の仮象である霊の織物が私の固有存在を覆う」という表現がありました。ですので、ぼんやりとしか捉えきれない感覚という仮象をその宇宙語の周りに織りなしていくというイメージも作れます。つまり、世界で生起する事柄をしっかりと味わいつつ、意味はわからずとも、それらを宇宙語と関連させていく感じです。
そうして豊かな記憶に包み込まれた宇宙語は、やがて私の内に私自身の諸力を目覚めさせ、私に私自身の与えてくれるはずなのです。
復活祭後;第20週、1912年8月18日~8月24日
私の存在(Sein)という語がはじめて登場します。しかし、それはまだ感情的に感じ取られるにすぎません。私の存在は世界-存在で形成されたと思われます。しかし、その起源からは離れ、他者との関係ではなく、それ自身において消えてしまいます。
さらに、世界基盤の対極に位置する自分固有の基盤だけに自己存在を築き上げようとすると、それを殺すことにすらなってしまうのです。
第19週には重要なものを受け取り、それが今度は自分の側から発展をはじめます。しかし、その前途は容易ではありません。大切で、しかも適切に育てられるべきものが生じ、全体に内省的雰囲気が生じます。
これまでは、「私自身」という存在は問題にならず、むしろそれを失いつつ外の世界に広がっていくイメージでした。ところが、この第20週では他からの影響は失われ、いわば孤独な作業の始まりが告げられます。後に助けがあるかはこの時点では不明です。
復活祭後;第21週、1912年8月25日~8月31日
第20週が先を暗示するだけで、方向性は明確でなく、いわば不安定な状態にあったものが、この第21週では「見知らぬ威力」が私に働きかけてきます。しかもこれは実りをもたらすものであり、ますます強力になりながら私に私自身を与えてくれるといいます。
この「見知らぬ威力」とはいったい何なのでしょうか。
後半は「萌芽」と「予感」という未来に向かいつつもまだ未知なるものを秘めたものが中心になります。「萌芽」は「見知らぬ威力」のおかげか、成熟に向かっているのを感じ取っています。
「予感」の方も未来に向けて希望に満ちています。「自己性という威力」が内面に存在しながらも、その傍らで光に満ちたものを織りなすのですから。
復活祭後;第22週、1912年9月1日~9月7日
第20週の方向が定まらない状態から、第21週では「見知らぬ威力」が私に働きかけ、方向性を示してくれました。そして第22週になると、事柄がさらに具体的になっていきます。外からやってくるものは「見知らぬもの」ではなく、「世界の彼方からの光」であるし、それは内側において生き続けるといいます。
さらにそれだけでなく、魂の光となり、霊の深みまで照らし出すというのです。そして、その光は果実を開放するためであるし、その果実とは、人間自己であり、それが時間の流れの中で世界自己から成熟してくるのです。
この週では「光」が鍵でしょう。世界の彼方からの光、内側の光、魂の光、霊の深みを照らす光というように、しだいに奥へと入り込んでいきます。
復活祭後;第23週、1912年9月8日~9月14日
第23週で夏が終わります。まず、感覚が刺激を求める傾向がぼんやりとしてきます。そして、人間の意識はしだいに内面に向きます。そして、光の開示においても霧が混ざってきます。実際、ドイツの秋、とくに早朝は霧に包まれる日が多いのです。クリアな視界は失われてきています。
そして、空間の彼方を観ても、自然界の旺盛な成長力はもはや存在せず、しだいに眠りについていく世界しか観られません。
最後にその状況を確認します。「夏は私に自身を与え尽くした」と。この週を境に、魂のこよみは内省的な内容になっていくでしょう。
復活祭後;第24週、1912年9月15日~9月21日
第20週ではじめて感情において感じ取った自分の存在(Sein)が、この24週に到って「魂存在」として、その存在が知覚されます。これまでは内側の存在はぼんやりとしたものでしかありませんでしたから、ここでまた一つの転換点を迎えていると言えるでしょう。しかしこの魂存在はまだ微弱で、そこに世界霊が力を与えてくれます。さらには「自己認識に新たな力」とありますから、この自己認識は昨年までの自己認識ではなく、春、夏を新たに経験してきた私の自己認識でなくてはなりません。
魂もまだ闇状態です。そこから新たなもの、つまり「自己感覚」が創造されます。しかもこれが意志の実りであるというです。しかし、夏の間に外の世界で行為(意志)を通して何かを得ていないと、そこには実りは生じません。ぼんやりとした意識において行われたことが、外からの霊的な助けによって、人間にとって重要な意志(行為)の実りが得られます。
これは、人間が生涯の行為、つまり意志の集大成が萌芽となって、死後にはそれがさらに展開していくという事実(『一般人間学』第2講)と相似です。春から夏にかけての意志活動の集大成が、秋以降に結実していくはずなのです。
復活祭後;第25週、1912年9月22日~9月28日
9月29日はミカエル祭です。その直前にまず宣言されるのは、自分が自分に属することが許される点です。これまでは、基本的に私は外の世界に引き出され、多くを体験するものの、ぼんやりとした意識でしかありませんでした。しかし、その自分が自分に戻り、さらには内面から照らし出しさえします。先週の第24週には「魂的闇」という語が登場しました。そして今回は空間の闇、時間の闇という私の外側です。内側はすでに輝きはじめています。
それでも闇に向かっていく外界では、存在が眠りへと向かわされ、それとは対照的に魂の奥底から目覚めていくのだといいます。そして、夏に体験した太陽の灼熱を魂に持ち込むのに対し、外の世界では冬が忍び寄っています。この詩には、対極的な流れが混在していはいでしょうか。眠りと目覚め、魂内と外界、灼熱と冷たさです。そうした対極が錯綜し、前半は日が長く、後半は夜が長くなる秋分前後の週です。
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