ドイツのクロワッサン
ドイツのパンというと、私の頭に真っ先に思い浮かぶのが黒パンです。様々な種類の麦の粉の配分を変えたり精製の度合いを変えたりして焼かれるパンは、実に色合いが豊かで見ていてあきません。味も食感もそれぞれ微妙に異なります。概して、私はドイツのパンは非常に美味しいと思うのですが、それでも一つ、移住当初は納得がいかなかったパンがありました。それはタイトルにもある通り、「クロワッサン」と名付けられたパン。以下は、そのドイツのクロワッサンについて、2020年4月にブログに書いた記事です。
30代の頃、私はトレッキングに夢中で、毎年夏と冬にスイスに出かけては、一人で何時間も山の中を黙々と歩いていたものでした(スイスには冬季でも本格的な装備なしで歩けるよう整備されたコースが各地に何種類も用意されているのです)。宿泊したスイスのホテル(や山小屋)の朝食では、スイスのパン各種にお目にかかれます。その当時「面白いな」と思ったのは、同じスイスでもフランス語圏に入るとその中に必ずクロワッサンが含まれること。焼き立てでパリパリのサクサク。まだフランスへ行ったことがなかった私にとって、「クロワッサンは斯くあるべし」と断言できるような美味しさで、「どうせ後で歩いてカロリーを消費するんだから」と、(今考えると絶品だったに違いない)ハムやチーズには目もくれず、コーヒーだけでクロワッサンを何個も平らげたものでした。
さて、それから10年以上もの時を経て、私はドイツへ移住しました。ドイツと言えば、フランスとスイスのお隣の国じゃないの。「はるかに遠い日本と違って、本格的な美味しいクロワッサンが食べられるに違いない」と意気込んで、移住したばかりの頃見つけたオシャレなカフェで早速クロワッサンを注文してみました。
しかし、大きな皿にのせられ仰々しく登場したクロワッサンを見た瞬間、「一体これは何」と思いました。確かにクロワッサンのようにクルクルと生地が巻かれている様子がわかりますが、大体クロワッサン(三日月)ではない。まるでツチノコのような形をしているではありませんか。加えて、とてつもなくデカい。長さ20cmくらいありそう。極め付けは硬い。パリパリなんてしていません。更に手に取ると妙に重い。ズッシリ。苦労してちぎってみると、薄い生地が何層にもミッシリと折り重なっています。これはクロワッサンという名こそ付いているものの、もはや完全なる別物。結局、一人で半分も食べることができず、残りは夫に手伝ってもらったのでした。
きっとこのカフェのクロワッサンに対する認識がおかしいに違いない。
そう思った私は、その後あちこちでクロワッサンを見かけるたびに、片っ端から食べてみました。それぞれ少しずつ相違点はあるものの、デカイ、硬い、重いの三拍子はいつもキッチリ揃っています。このご時世、フランスの「元祖クロワッサン」のレシピはどこでも簡単に手に入るはずだし、現代の技術を持ってすれば「元祖クロワッサン」に限りなく近いクロワッサンを作ることはそれほど難しいことではないはず。それにもかかわらず、重量級巨大クロワッサンを焼き続けるのは、ドイツ的魂がなせる技なのでしょうか。理解できない。
フランスの隣国であるドイツに住んでいるおかげで、その後数回ほどフランスを旅行し、彼の地でホンモノのクロワッサンを食した後は、しばらく私はドイツ的解釈のもとに焼かれたクロワッサンからは遠ざかっていました。フランスのパリパリのクロワッサンを味わった時、ドイツの重量級巨大クロワッサンに「これは間違っている」という最後のダメ押しスタンプを押したからです。そのうち近所にちょっと垢抜けたカフェができて、まあ、元祖よりまだ一回りサイズが大きいものの、かなり元祖に近い雰囲気のクロワッサンを味わえるようになったので、更にこの重量級巨大クロワッサンに挑戦する機会は激減しました。
しかし、先月末(2020年3月)、コロナウィルス関連措置に従い、このカフェが休業してしまいました。このカフェが焼くパンはクロワッサンに限らずどれも美味しく、時々お持ち帰りしていた私にとって、仕方ないとはいえ非常に残念な話です。そう夫にボヤいたら、ある日買い物に出た夫が、駅のそばに古くからあるパン屋さんでクロワッサンを買って帰ってきてくれました。相変わらずデカい。やはり確実に全長20cmはあります。でも、この重量級巨大クロワッサンに遭遇するのは本当に久しぶりだったので、好奇心も手伝って早速食べてみました。あら、美味しいじゃないの。しっとりしていて(これがそもそも元祖クロワッサンとの決定的な違いになるわけですが)、口の中にフワッとバターの香りが広がります。甘さを控えめにして果物の形を残すように作られたドイツの手作りジャム(これは本当に美味しい)に合わせると、まさにピッタリきます。そもそも、クロワッサンだと思って食べるから間違っているのです。これを元祖と比較してはいけない。クロワッサンという名こそ冠してはいるものの、これは全く別のパンなのです。...というわけで、最近は買い物当番の夫が町に出るたびに、パン屋さんで重量級巨大クロワッサンを買って帰ってきてくれます。今や、これが楽しみになりつつあります。
それにしても。何年経っても(少なくとも、私が最初にドイツのクロワッサンを食してから、約10年経ちます)絶対にフランスの元祖クロワッサンに似せたクロワッサンを焼かない近所のパン職人さんたち。そこに筋が真っ直ぐに通った頑固さや、地に足がついた姿勢を感じるのは、私だけでしょうか。