コロナ禍の学生運動に思うこと
コロナ禍の学生運動で「#大学生の日常も大切だ」を扱ったSNSのデモが行われた。確かに彼らの主張は道理が通っており、理解はできる。だが、私はこのハッシュタグに抵抗を感じてしまうのである。
コロナ以前から、私の「大学」生活は存在していなかった。週8〜9バイトを行っていた時期や無賃労働をさせられていた時期など、私の生活は全てアルバイトに奪われていた。大学生の日常として掲げられた学生生活像は、私にとっては夢物語であった。コロナ前からそのような学生生活は送れていない。彼らの主張は贅沢なものに見えた。
学費生活費を自分で賄う。そのためのアルバイト。精神的に追い込まれていったのは無理もないことだろう。気づけば、ちょっとした贅沢、1食の食費を500円程度にすることにすら罪悪感を抱くようになった。
また、先にも触れたように生活の中心がアルバイトになっていた。大学生なのかフリーターなのか分からなくなっていた。何のためにここに来たのか。そればかり考えるようになり、高校生の頃に思い描いていた、勉強を楽しむという理想とそれどころではない現実の乖離に苦しさを覚えた。
「#大学生の日常も大切だ」を使って投稿されていたコロナ前の大学生活は、まさに自分の理想であった。彼らの日常は自分の理想、自分にとっては夢物語で贅沢な主張に感じてしまった。抵抗を感じたのはルサンチマンに依るのだろう。
「大学生の日常」とは何か。もちろん、人それぞれ異なるものではある。だが、コロナ禍におけるこの言葉の含意は幅が広すぎた。いや、正確には高等教育の大衆化に伴い、現状の学生を取り巻く環境が多様化しているために生じた事象であり、その意味では仕方がないことである。
この状況を踏まえて、求めていくべきは「日常の回復」なのか「日常の整備」なのか。両者は似ているようで意味するものは大きく異なる。コロナ禍で学生の貧困が問題になったのはなぜか。日常を回復したところで、彼らの苦しみは変わらない。貧困状態にない学生にしても、現状、自らの権利がどのような状況に置かれているのかを理解する必要があるのではないか。彼ら自身の身を守るために。
日常の中にも権利が侵害されている状態はたくさんある。単なる日常の再生で良いのだろうか。権利を基にした主張の展開が必要である。