Scheherazade

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最近の記事

2022年を振り返る。

今年も1年。あっという間の1年でした。 まぁ、新卒社会人1年目なんてそんなもんかもだけど。 今年を振り返ってもいろんなことがあった。車を買ったり、社会人になったり。 1番大きかったのは… パッとは出てこないけど、7月度の営業成績で全国トップクラスになったことか。 新卒2位、全社員22位。 やりきった、というよりかは「自分ってここまでできるんや」っていう方が強かった。 今年はあんまり書くことがない、というよりはあまりにも多すぎて思い出せないの方が強いかも。 来年の目標は

    • サウナにみる社会性

       車を買ってからサウナにハマっている。もうすぐ納車から1年。サウナー歴も1年になる。  今日もサウナに行った。自宅から一番近いサウナ。金沢の繁華街・片町に近いこともあり、アクセスが良く、さまざまな層のお客さんが来場している。  いろんな年齢層の方がサウナを楽しむのは良いことだ。あれほどの快感を万人が味わえる娯楽はサウナ以外にないだろう。  だが、今日のサウナは少し違った。学生と思しき5、6人の集団がサウナにいた。タワーサウナの最上段に座る彼らはサウナ室内で談笑をしていた。

      • 卒業。

        金沢大学人間社会学域学校教育学類英語教育専修、卒業しました。 学費と生活費を全て自費で賄った4年間。 そんな4年間を振り返ると、楽しい思い出は正直ほとんどなくて、辛い・しんどい・キツいなどの否定的な感情ばかり浮かんできます。 週7〜8でバイトしていた1年と2年前期、地元が被災してボランティア活動に追われた2年後期、コロナ禍とそれに伴う学費運動に奔走した3年、鬱で通院して就活どころか生活もままならなかった4年。 何のために大学へ進学したのかを自問自答し続けた4年間でした

        • 「普通」「一般的」「当たり前」

          「なんで、クラスメイトはヨシトをいじめたのかな?」 「なにか、ヨシトは違ったのかな?」 「じゃあ、普通って何だろう?」 かなり前の教育実習での一場面。たまたま、道徳の授業を担当させてもらえた。 使う教材はいわゆる「定番教材」。俺自身、それで学習した記憶があるようなものだ。 自分の中にあった疑問をそのまま発問にした。自分にも答えがなかった。ただ、自分が子どもたちの答えを聞いてみたいという独善的な理由があったことは否めない。 あれから時は流れ、この命題が再び俺の前に立ちはだ

          「後悔と反省は別物だよ」

          なんで、あの時、助ける判断をしたのだろう。 あそこまでされて、自分の尊厳を踏みにじられたのに。 それでも助けたのはなんでだろう。 正直、消えて欲しかった。いなくなって欲しかった。 もううんざりだ。 だけど、あの時、たぶん、あいつのことを思い返した。 自分が殺してしまったのかもしれないという自責の念がまた蘇ってきた。 自分勝手な捉え方だけど、君が僕に「後悔するな」と背中を押したのかもしれない。 君のおかげで、俺は、今、また苦しみの中にいるよ。

          「後悔と反省は別物だよ」

          思考ノート

          優しくあれ 困っている人には手を差し伸べろ そう言われて育ってきた。 親族は正直好きではない。だけど、この言葉だけは、自分の中の大切なものとして刻まれている。 その結果がこれである。 人の信頼を失い、人から避けられ。 他人など気にするな。分かってくれる人はいる。 そんな言葉をかけてくれる「優しい」人がいるかもしれない。 だが、失ったものは取り戻せない。 優しさは狂気だ。 他人を、そして自分を傷つける凶器だ。 他人の幸せに狂喜するよう仕組まれた俺は、他人の幸せ

          思考ノート

          思考のーと

          本当の優しさとは何か?幸せとは何か?生きるとは何か? そして正しさとは何か? 彼はこう遺してこの世を去った。 自分なりに、彼の言葉に対して向き合ってきたつもりだ。卒論のテーマも、「幸福とは何か」である。 Mark Twainは、「人間とは環境と気質に制御された機械である」と言った。 この言葉が真実であると、最近はつくづく思う。 「惰性で生きていたくはない」と、あいつは言い遺した。 では、俺はどうなのだろう。 ただ、惰性で生きているのではないか。愛や価値観を失って、

          思考のーと

          コロナ禍の学生運動に思うこと

          コロナ禍の学生運動で「#大学生の日常も大切だ」を扱ったSNSのデモが行われた。確かに彼らの主張は道理が通っており、理解はできる。だが、私はこのハッシュタグに抵抗を感じてしまうのである。  コロナ以前から、私の「大学」生活は存在していなかった。週8〜9バイトを行っていた時期や無賃労働をさせられていた時期など、私の生活は全てアルバイトに奪われていた。大学生の日常として掲げられた学生生活像は、私にとっては夢物語であった。コロナ前からそのような学生生活は送れていない。彼らの主張は贅

          コロナ禍の学生運動に思うこと

          コロナ禍と学生生活の狭間で

           コロナ禍で学生の貧困が問題視された。自分も当事者であるため、声を上げた。だが、この問題の根本に迫った言説はどれほどあっただろうか。メディアの取材や世論は「コロナによる学生の貧困」ばかりを問題視する。元から存在していた「学生の貧困」にスポットを当てた報道は片手で数えるほどだった。コロナ禍と学生生活の狭間で、忘れ去られたものはなかっただろうか。  私は生活費を自費負担することを条件に大学進学を許された。当初は授業料に関しては親持ちという話であったが、気づけばそれすらも自己負担

          コロナ禍と学生生活の狭間で