サウナにみる社会性

 車を買ってからサウナにハマっている。もうすぐ納車から1年。サウナー歴も1年になる。
 今日もサウナに行った。自宅から一番近いサウナ。金沢の繁華街・片町に近いこともあり、アクセスが良く、さまざまな層のお客さんが来場している。
 いろんな年齢層の方がサウナを楽しむのは良いことだ。あれほどの快感を万人が味わえる娯楽はサウナ以外にないだろう。

 だが、今日のサウナは少し違った。学生と思しき5、6人の集団がサウナにいた。タワーサウナの最上段に座る彼らはサウナ室内で談笑をしていた。
 暑さとの闘いでその気を紛らわすためなのか、はたまた友人たちとの会話を楽しんでいるだけなのか。いずれにせよ、彼らの話し声はサウナ室全体に響いており、非常に不快であった。サウナ室にいる他のお客さんも気にする視線を彼らに向けていた。しかし、彼らは一向に止める気配がなく、あろうことか話が盛り上がり声量も大きくなっていた。

「うるさいですよ」
 自分は思わず注意した。学生たちは「すみません」と答えるが不満げな表情を浮かべていた。

 外気浴しながら自分は考えていた。自分の行動は正しかったのか、と。もちろん、マナー面で考えれば正しい行為と言える。しかし、自分の行動は自分達の整いの儀式を邪魔されたくないと考える大多数の人の声を拾い、「自分が正義感を得るための行動」ではなかったか。そんな普通の人なら考えもしないようなことを考え、整おうとしていた。

 ふと、ある記憶が蘇った。かつて本を共同出版させていただいた際に、共同出版者の方々との繰り広げた会話。「社会における公共の福祉とは何か」

 自分は、公共の福祉を「社会に属する人々が共有する最大公約数的な権利
」と考えている。サウナ室におけるワンシーンが社会全体の縮図に見えた瞬間であった。サウナ室における公共の福祉。自分の考えに沿えば、それは「サウナ室内における私語を慎み、サウナー各々の快感のための空間を維持する」となる。

 問題は、自分の行為がこの公共の福祉を盾にして自分自身の精神的な充足を得るための行動になっていたかもしれない、ということだ。

 あらゆる行いも、自分が気持ちよくなろうとするために行ったのであればその価値は失われる。

 自分がお世話になっているバーのマスターの言葉。これもまた、蘇ってきた。果たして自分の行いは、価値のある行動であったのだろうか。自己満足のための行動であったのなら、社会性が低いのはどちらなのだろう。

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