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第97回アカデミー賞授賞式を見て思うこと

裏方に光を当てるという素晴らしいコンセプト

第97回アカデミー賞授賞式は、「カメラの後ろにいる裏方にスポットライトを当てよう」というコンセプトだったそうです。そのコンセプトどおり、普段はマイナー部門と揶揄されてスルーされてしまいがちな技術系の部門にしっかりと尺が割かれていました。

思えばアカデミー賞授賞式は、視聴率低下が嘆かれるなか、どうにか式の時間を短くしようという運営側の試行錯誤の歴史があります。受賞者が壇上に上がるまでの時間を短縮しようと、会場にいるノミニーの席の近くでプレゼンターが賞を発表するという珍演出や、いくつかの不人気(とアカデミー協会が判断した)部門を授賞式の前に発表して生放送からカットするという悪しき改変がなされた年もありました。このように、裏方の仕事は演技賞など光の当たる部門と比べて明らかに脇に追いやられてきたのです。

衣装デザイン賞の発表では候補作の出演者が勢揃いしてノミニーに賛辞を贈った

それに比べて、今年の演出は技術部門を魅力的にクローズアップするものでした。たとえば衣装デザイン賞の発表では、ノミネートされた作品の出演者がひとりずつ登壇し、会場にいる衣装デザイナーに語りかけるように、自分たちが身にまとった衣装のすばらしさを称えました。また、作曲賞の発表では、ノミニーを紹介する映像に作曲家自身が語った言葉を差し込むことで、その仕事ぶりの一端を垣間見られるような工夫がありました。

その甲斐あって、今回の授賞式では裏方たちの仕事ぶりに十分な光が当てられていたように思います。退場を促す音楽で強制的にスピーチを制止するようなこともありませんでした。結果、授賞式は去年より30分も長い3時間50分という尺になりましたが、司会のコナン・オブライエンがしきりに「時間を無駄にしない!」と叫んでいた(歌ってもいました)ように、すべてが必要で、適切な時間配分になっていたと思います。

山火事被害にさまざまな惨事……華やかな式は必要なのか?

そのコナン・オブライエンですが、さすがにTVのトークショーを長年続けているだけあって、余裕たっぷりの司会ぶりでした。切れ味鋭いジョークで会場の爆笑を幾度となく誘い、授賞式を彩り豊かなものにしてくれました。ロサンゼルスを襲った山火事災害の直後にこのような華やかな式典が果たしてふさわしいのか?そんな疑問も脳裏をよぎるところですが、そこはさすがエンターテインメントの街です。山火事の対応にあたった実際の消防団員たちを招いて舞台に上げ、不謹慎なジョークを言わせて笑いまでとってしまうという貪欲ぶり(消防団長「お悔やみを申し上げます…『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』のプロデューサーのみなさんに」など)。映画は日常を忘れて楽しむためのものでもあり、こうしたツラい時期だからこそ、派手で楽しい祭典で悲しみを吹き飛ばそう!といったところでしょうか。

「時間を無駄にしない!」と歌い上げる司会のコナン・オブライエン

コロナが直撃した2020年3月に行われた授賞式では、多くの楽しい演出を省くことを余儀なくされ、プレゼンターと受賞者のスキンシップすら制限されてしまいました。緊急事態のさなかに行われたあの授賞式は、安全であることを最優先にしなければならなかったがゆえ、残念ながらエンターテインメントが持つちからを世界中に発信することができなかったように思います。今年もロサンゼルスの山火事だけでなく、ウクライナやパレスチナの問題など悲しいできことがたくさんある中での授賞式でしたが、楽しく、華やかな式にすることで、エンターテインメントがそれらに打ち勝つ原動力になりうるというメッセージを送ることができたのではないでしょうか。

「ANORA アノーラ」が圧勝した理由

オスカーノユクエでは、複数の作品が2部門ずつを分け合うというバラけた結果を事前に予想していたのですが、終わってみれば「ANORA アノーラ」がノミネートされた6部門中5部門を受賞するという圧勝に終わりました。この結果はどうして起きたのでしょうか。

作品賞ほか5部門で受賞した「ANORA アノーラ」

2015〜16年にかけて起きた「#OscarsSoWhite(白すぎるオスカー)」をきっかけに、アカデミー協会は会員構成を大きく変える改革を断行します。結果、それまでは白人の老会員が過半数を占めるとされていた会員構成が、年齢、性別、国籍も様々なバラエティ豊かなものに生まれ変わりました。アカデミー協会が標榜する「多様性」の実現が一歩ずつ確実に進んでいるわけです。これにより、近年のアカデミー賞はその受賞結果が明らかに変わってきました。一昔前なら絶対に受け入れられなかったであろう作品(例えば一昨年の「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」など)が主役を張ったり、これまでオスカーウォッチャーたちの間で鉄則とされてきたセオリーの数々が打ち砕かれてみたりと、その変貌は急激かつダイナミックに訪れたのです。

今回の「ANORA アノーラ」圧勝も、まさに多様性が生んだ結果なのだと思います。作品賞部門の事前の下馬評は、最終的に「ANORA アノーラ」vs「教皇選挙」へと集約されていきました。インディペンデントを代表するような野心的かつ挑戦的な前者と、クラシカルな雰囲気を纏った古き良き時代の映画を思わせる後者(実際にはかなり前衛的な映画ですが)。アカデミー会員にとって、この二者択一はいわば、自分がどちらの「時代」を選択するか、という心理へと転換されていたのではないかと想像するのは穿ちすぎでしょうか。

8部門にノミネートされるも1部門受賞に終わった「教皇選挙」

「教皇選挙」が古い時代の映画だと断じるつもりはまったくありません。事実、「教皇選挙」で投げかけられるメッセージには今の世相が大きく反映されていますし、まさに今作られるべき映画でした。しかしながら、従来のハリウッド映画の真逆を行く型破りな「ANORA アノーラ」との対比で、会員の心理においてはオールドタイプのレッテルを貼られてしまった可能性もあります。

おそらく、10年前に同じ顔ぶれで作品賞を争っていたとしたら、「ANORA アノーラ」は受賞できなかったのではないかと思います(もしかしたら「教皇選挙」も前衛的すぎる、と退けられていたかもしれません)。会員構成が多様化したことで、「ANORA アノーラ」の価値が認められたことは、素直に映画の可能性が広がった結果だと喜んでいいのではないでしょうか。

完全に無効化した過去のセオリー

演技賞部門でも驚いたことがありました。主演男優賞をエイドリアン・ブロディ(ブルータリスト)が受賞したことです。

「ブルータリスト」で主演男優賞を受賞したエイドリアン・ブロディ
主演男優賞を2度以上受賞した俳優は過去10人しかいない

前哨戦では終始リードしていましたし、直前の最重要賞SAG(俳優組合賞)を逃したとはいえ、依然最有力ではありました。ただ、古くからのオスカーウォッチャーからすると、主演男優賞を2回受賞している往年の名優たちとブロディが肩を並べることに、どうにも違和感を拭えなかったのです。演技賞部門ではとくに、アカデミー賞の受賞回数はそのままステータスに直結する大事な要素です(でした)。「あの人は1度受賞してるから今年の受賞はない」とか、「あの人をさしおいてこの人が先に受賞することはない」など、俳優として積み上げた実績も重要な予想材料です(でした)。そのセオリーからすれば、かつての先達に比べてまだまだ実績の乏しいブロディに2度目は早い、という結論になるはずなのですが……そんなものはもはや過去の遺物だったようです。

「サブスタンス」で主演女優賞受賞を期待されるも落選したデミ・ムーア
今回は相手が悪かった?

デミ・ムーア(サブスタンス)が受賞を逃したことにも驚きました。こちらは逆に、10年前なら受賞を逃すシーンが容易に想像できたのですが、多様性ある今の会員構成なら受賞を阻む要素はないと考えていました。かつてエディ・マーフィー(2006年に「ドリーム・ガールズ」で本命視されながら落選)やシルベスター・スタローン(2015年に「クリード チャンプを継ぐ男」で本命視されるも落選)に起きた悲劇は繰り返されないだろうと。ただ、おそらくこれはデミ・ムーアの受賞を拒否する流れではなく、単純にマイキー・マディソン(ANORA アノーラ)を称賛する声のほうが大きかった、ということでしょう。今回の「ANORA アノーラ」圧勝ぶりを見れば、アカデミー会員たちがいかにこの作品を愛したかがわかります。デミ・ムーアには気の毒ですが、相手が悪かった、と思うしかありません。

「エミリア・ペレス」に起きたこと

もうひとつ、今回のアカデミー賞で象徴的だったのが、「エミリア・ペレス」に起きたことです。ノミネート発表の段階では、12部門13賞という堂々の最多候補で一躍本命の座についたかに見えました。外国語がメインのフランス国籍映画であり、かつアカデミー賞とは相性のよくないミュージカル映画というハンデを背負ってはいたものの、その時点では確かに作品賞の最有力候補として認識されていました。しかしその後、事態は一変します。主演女優カーラ・ソフィア・ガスコンが過去にSNSで差別的な投稿を行っていたことが発覚。さらに火消しが裏目に出たこともあり、作品を支持する声はあっという間に萎んでいきました。いわゆる「キャンセル」が起きたのです。

12部門13賞で最多ノミネートされた「エミリア・ペレス」

近年、ハリウッドでも「キャンセルカルチャー」についての議論が活発に行われています。大物監督や俳優が後に事件や騒ぎを起こしたことを理由に、過去の作品がなかったことのように扱われたり、評価が下がったりすることは、果たして適切な対応なのか?という議論です。今回のケースに限れば、カーラ・ソフィア・ガスコンの差別投稿は「エミリア・ペレス」とはまったく関係がありません。にもかかわらず、おそらくアカデミー会員たちはそれを理由に「エミリア・ペレス」をキャンセルし、多くの部門で票を投じることを拒否しました。その対応は正しいことだったのでしょうか?それとも、会員たちはガスコンの差別発言を無視して、「エミリア・ペレス」に投票すべきだったのでしょうか?今後もこの問題は多くの議論が重ねられることになるでしょう。

最後に 〜ショーン・ベイカー監督のスピーチ〜

最後に、1人で4つのオスカー像を持ち帰ることになった「ANORA アノーラ」のショーン・ベイカー監督のスピーチを引用して終わります(映画.comの翻訳がすばらしいので引用させていただきます)。インディペンデント映画シーンで長らく活動してきたベイカー監督の言葉だけに、重く胸に響きます。そして、立場は違えど、同じく映画を愛する者として、この訴えに激しく同意し、今の自分に何が出来るのかを考えています。どうかこれから先、映画を楽しむ人たちがもっともっと増えて、いい映画がたくさん作られることになりますように。

私たちが今夜ここにいて、この放送を見ているのは、みんな映画を愛しているからです。では、私たちはどこで映画と恋に落ちたのでしょうか? それは映画館です。映画館で観客と一緒に映画を見ることは、かけがえのない体験です。みんなで笑い、泣き、叫び、怒り、あるいは絶望の沈黙の中でただ座ることもある。そして今、世界が分断されていると感じる時代だからこそ、この体験はより一層重要になっています。

これは、家では決して得られない共同体験です。しかし今、映画館という体験が脅かされています。特に独立系映画館は、経営の厳しい状況に置かれています。それを守れるのは、私たちしかいません。パンデミックの間に、アメリカでは約1000のスクリーンが失われました。そして、今もなお映画館は減り続けています。この流れを止めなければ、私たちは文化の大切な一部を失ってしまう。これが、私の戦いの叫びです!

映画製作者の皆さん、どうか映画を大スクリーンのためにつくり続けてください。私はつくり続けます。配給会社の皆さん、映画の劇場公開を最優先にしてください。NEONは私の映画でそれを実践してくれました。本当に心の底から感謝します。

親御さんたちへ、子どもたちを映画館での映画体験に連れて行ってください。そうすることで、次世代の映画ファンや映画製作者が育つのです。そして、すべての方たちへ、できる限り、映画館で映画を見ましょう。映画を見るという素晴らしい伝統を、これからも守り続けましょう。

映画.comより一部抜粋
「ANORA アノーラ」で作品賞・監督賞・脚本賞・編集賞を受賞したショーン・ベイカー


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