11月23日創設者の23回忌に考えた、創設者が亡くなっても、なくならないもの。
今日は11月23日。ぼくのおじいちゃん、シナリオ・センターの創設者、新井一の命日です。
いい歳したおっさんが『おじいちゃん』というのもあれなんで、ふだんは『新井一は〜』とか『祖父は〜』って言ってますよ。じいちゃん子感、出さないように。
でも、今日は命日。たまにはいいかな、と。
▼おじいちゃんとぼく
今年で23回忌。来年はシナリオ・センター50周年。新井一なしでよくここまで続いたと思います。
シナリオ・センターは、1970年に優秀なシナリオライター・脚本家、プロデューサー、ディレクターの養成を目的に、新井一が創立。
ジェームス三木さん、内館牧子さん、岡田惠和さんなど600名以上の脚本家、小説家を輩出するの学校です。
なんせ、新井一が亡くなったときに「シナリオ・センターはもう終わりかもね」なんて言われたらしいです。それだけ『新井一』は大きな存在だったんですね。
でも、そこから踏ん張って来年で50年。代表小林の努力の賜物だと思います、ぼくは。
本人からすると「そんなことないよ」ってことをブログに綴ってます。そういうところが、続いてきた秘訣かもですね。
孫とおしるこ食べて、倒れて、天国
新井一の最期、なかなか劇的です。
まぁ知らないじいさんの最期の時なんて知りたくないかもしれませんが、きっと「こんな死に方ならいいなぁ」と思うはずです。
その前に知っといてほしいこと点が、三つ。
・新井一は、大の甘いもの好き
・心臓病や晩年はガンもわずらっていた
・一緒に暮らしていた僕のこと、孫のなかで一番好きだったはず
(唯一の男の子だし、一番下だし。下は無条件でかわいいものでしょ!)
で、そんな新井一さんは、自宅で、お昼に娘(代表の小林)が作ったおしるこを食べました。当日17歳のぼくと一緒に。
けっこうな量を食べました。
30分くらいして、「ちょっと胸がムカムカする」といって薬を飲みに、洗面所へ向かいました。
洗面所の手前で倒れました。バターン!と大きな音がしたそうです。何事かと思って母は駆けつけました。新井一が倒れていました。
倒れてる姿を見た瞬間は、音が全然しなくて、深い海のそこにいるような、そんな感覚だったと後で話していました。
2階にいたぼくは「おじいちゃんが倒れた!」といって部屋に入ってきた時の母の声と表情を、いまでも覚えています。
救急車を呼びました。意識は戻りませんでした。
そのまま天国に行きました。
新井一は、娘が作った大好物のおしるこを、孫とたべて亡くなりました。
ほら、こんな死に方、うらやましいでしょ。全然苦しんでない。
これが、シナリオ・センター創設者新井一の幕引きです。
おじいちゃんがやり残した事はなんだろうか
「シナリオライターなんて、『習うより慣れろ!』の世界。新井ちゃん、養成学校なんてうまくいかないよ」と言われながらも、退職金を投げ打って始めた脚本家養成学校シナリオ・センター。
その根底には、大宅壮一さんの『一億総白痴化』に対抗しての『一億総シナリオライター化』への想いがあります。
来年で50年。新井一は、おじいちゃんは、今のシナリオ・センターをニコニコ見てくれるかな。ぼくは、かわいがってもらった分、いい仕事ができているのかな。自分のことは、なかなかわからない……
でも、わかっていることがあるんです。
『シナリオ』はすごいっていうこと、そして新井一が遺した『シナリオの基礎技術』は、作家を目指す方はもちろん、日々生活するぼくたちみんなに『いいこと』をもたらしてくれるっていうことを。
だからシナリオ・センターは、日本中の人にシナリオを書いてもらいたいんです。「あのとき、シナリオ・センターと出会ってよかった」ってこっそりでいいから、日本中の人に想ってもらいたい。
それが、新井一の、代表小林の、講師の、スタッフの、もちろんぼくの、がんばる理由だもの。
そんなこんなで、おじいちゃんの命日に、シナリオを書くと起きる『いいこと』をおっそわけしたくてnoteをはじめました。
▼シナリオ・センター1.2.3(30年くらい前?)
(しまいまで書いて、ふっと雨宮さんにゴットタンで「○○はじめました。」の歌にしてほしい、と思ってしまった)
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