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殺人鬼ジェイソンは論理学の天才だった…とでも、言うのだろうか?【ある映画ファンが2024年の13日の金曜日に考えたしょーもないハナシ】

※本記事内の参考文献URLおよび参考DVDのURLにはAmazonアフィリエイトリンクを貼らせて頂いております旨、あらかじめご了承ください

皆さん、おはようございます。SF映画やホラー映画のレビューなどをnoteでやっております、ヤシロと申します。

さて、プロフィールにも記載させていただいた通り、

実は今年の私、

通信大学で大学数学&論理学を基礎からガッツリと、勉強中です。

ところが、だ。

その論理学の教科書で、「善悪」や「価値」に関する章で、とても気になる議論に出会いました。

・まず、「論理学は、殺人者を糾弾できるか?」と問題設定をする

・結論としては、「できない」。。。まぁ、ここまでは、皆さんも予想通りと思います。ところが教科書での議論が面白かったのは、ココから

・「たしかに論理だけで『殺人は悪い』とかいった価値観に関する証明はできない。だが、以下のようなやり方で、論理学の立場から『人を殺すことは何であれいけないことだ』と主張可能ではないか?」というもの

・まず、「論理」とは、その背後に「言語」を前提としている。そして、「言語」とは、個人が勝手に発明したり改変したりできるものではなく、「社会との関係の中で」与えられ、はぐくまれるものである

・ということは、どんな極端な思想や考え方の持ち主であっても、「言語を使ってモノを考え、その思想を主張する」以上は、社会との関係の中に自らを置いている。どんな極端な思想であっても、社会との関係を前提にしないかぎり、そもそも、「考え」たり「思想を主張」したりすることができない筈だ

しかし殺人というのは、他の犯罪にもまして、「言語によって相互に成り立っている社会」の関係の土台そのものへの挑戦と解釈できる。自分以外の誰か「言語的主体」を抹消できてしまうという意味で、論理や言語の前提そのものを破壊しかねない「殺人」というものは、論理学的にも、「他の犯罪よりもレベル違いに重くて、徹底禁止すべき、格別の犯罪」と言えるのだ

・つまり「殺人はぜんぜんOKだ!」と主張する快楽的な殺人鬼がもし存在したとしても、彼は一種の矛盾を生んでいる。論理学は、彼を「悪」と断ずることはできない。だが、「あなたは矛盾した存在だ」と、論理的なおかしさを指摘することはできる。論理や言語を使って『殺人の何が悪いんだ?』とうそぶきながら殺人を実行する人がいたとしたら、彼は悪人であるかどうかよりも前に、その立場そのものに巨大な矛盾を孕んでいるのだ!

といった議論でした。まぁ正直、私もこの議論に完全に納得したわけではありませんが、

「論理というものを大事にする、という立場から、『人を殺すことは他の犯罪に比較しても格段に重い犯罪なのだ、と指摘できる」というのは、なんとも、面白かった。発展させると、もっと切れ味が出る論理になるかもね!

と・・・議論自体、なかなか面白かったのですが・・・

映画ファンとして、どうしても気になってしまったのは、この議論の最後に書かれていたこと。

「もちろん、上のような論法は、『そもそも言語も論理もいっさい使わないで、無言のまま、目につく人間を動機もなく片っ端から機械のように無差別に殺す殺人鬼』がいたとしたら、そんな殺人鬼に対してはまったく歯が立たないわけですがw」

と、冗談交じりに書かれていたのです。

『そもそも言語も論理もいっさい使わないで、無言のまま、目につく人間を動機もなく片っ端から機械のように無差別に殺す殺人鬼』って・・・

論理学の先生は、特定の人間やキャラクターを想定して、このように書いたわけじゃないでしょうけど・・・

先生!いますよ!そんなヤツが!

まさに無言のまま機械のように殺戮を行う奴が・・・

というか、私個人は、彼が喋ったところを見たことがないので、そもそも「論理的な思考」どころか、言語能力が備わっているのかどうかすら、怪しい、そんなヤツが!

そうだ、今日は13日の金曜日!まさに今日、語るにふさわしい男が!その名もジェイソン! 

そうか!彼は論理的にも矛盾のない、無欠の殺人マシーンとして、べらべら「自分なりの殺人の美学」をおしゃべりしてしまうハンニバル・レクター博士やら、ただのダジャレ好きのおっさんとも解釈可能なフレディとは、別格なのだ!

・・・というのは、もちろん冗談ですがw、しかし!

『13日の金曜日』のジェイソンにせよ、『悪魔のいけにえ』のレザーフェイスにせよ、『ハロウィン』のマイケル・マイヤーズにせよ、ホラー映画の長期シリーズで人気が出る殺人鬼キャラクターのひとつの類型が、「いっさい、喋らないこと・・・というか、そもそも『内面的思考』をしているかどうかも怪しい、中身が『無』のように感じられる存在であること」の理由が、少しわかった気がするぞ!

ああいうキャラクター付けは、論理学的にも、意味があったのだ!「真にヤバイ殺人鬼」は、いっさい、自己について言及してはいけないし、いやそもそも言語を使ってはいけないのだ!

※最後に、いちおう、不要かもしれない補足ですが・・・まぁ、もし現実に、ホッケーマスクをつけたおっさんが、無言のままキャンプ場で無差別に人を殺しまくっていたら・・・「論理学の立場から糾弾する」必要なんかなくて、単純に「物理的な危険性」が明白であるがゆえに、警察に即通報、必要であれば容赦なく正当防衛の反撃に出るべきとは思いますがw・・・現実の殺人犯とかテロリストとかも、みんな、ホッケーマスクと斧を抱えてうろついているくらいに「見た目からして危険度MAX」なら、むしろ市民社会は守りやすくて助かるのですけどねw・・・現実の犯罪者やテロリストはそんな単純じゃないからなぁ・・・というわけで、実は、B級のどんな血みどろグチョグチョホラー映画でも、現実世界の複雑さ不条理さ怖さに比べれば、じゅうぶんに牧歌的、と言う逆説に気づいちゃうのでしたw

『13日の金曜日』のようなスラッシャー映画ですら、良く考えると、現実のニュースで訊く現実の事件の恐ろしさに比べればまるで怖くないなんて、、、イヤだねえ、本当に・・・。


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