古典SF映画『メトロポリス』(1927)パブリックドメインゆえ誰にでも見られるが誰にも完全に理解ができない映画のハナシ
以前、私は以下の記事で「私の好きなSF映画10選」なるものを掲げ、
その中でフリッツ・ラング監督の『メトロポリス』の名前を挙げておきました。
この作品、いまやDVDも格安ですが、日本語字幕解説にこだわらないのであれば、英語版やドイツ語版のパブリックドメイン公開作品はいくらでも見られる。
そういう意味で、誰にでも見ることができる映画です。
だが、誰でも視聴可能ということは、
誰でも見ても理解可能、とは、限らない。
そもそもサイレント映画というものに慣れていない人は、百年前の映画のこの「様式」そのものに慣れず、戸惑うかもしれませんし。
そのうえ、何よりも難しいのは、当時の各国の検閲・検閲・検閲の複雑さで、ドイツ公開版、アメリカ公開版、日本公開版などなど、さまざまな編集バージョンが存在し、それぞれでストーリーの印象がぜんぜん違うものになる上に、
オリジナルのバージョン自体は散逸してしまっているので、いまだ、完全版の復元は完了していない(今後も可能なのかどうかわからない)ということです。
※いちおう、ブエノスアイレスの博物館に保管されていたフィルムをもとに復元したものが「完全版」という題名でソフトリリースされたが、これとて欠落部分が多々あり、「オリジナルの95%程度の復元率」と言われています。
そういうわけで、いまやネットで誰にでも見られる映画になったにも関わらず、公開当時の姿を見ることは誰にもできないという状況の本作、
さらにややこしいのは、
この作品、労働者と資本家の対立、格差の問題、そして人間とロボットの対立、などといったかなり社会派なメッセージを込めているのですが、この、いちばんのテーマに関わるところこそが検閲でよくわからない編集になっているので、製作者の当初の意図を読み取るのはもはや不可能な状態といっていい。
一例を挙げれば、
本作の「完全版」の最後では、資本家と労働者が世界の再建に向けて握手をして和解をするシーンがあるのですが、これとても、どうも唐突で、誰かに言われてあわてて付け加えたシーンなのではないか、と邪推してしまう。とかとか。
ですが、今の我々がこの作品を見て、
いちばん考え込んでしまうところは、
先述した通りに編集段階でさまざまな手が加わってしまっているとはいえ、
ともかくもストーリー的には、「暴力よりも和解が大事だ!」「子供たちの未来こそ優先だ!」「心こそが大切だ!」という大団円で感動的に終わるこの大作を大絶賛したドイツが、わずか10年後にはあの戦争に突入し、ホロコーストの惨禍を巻き起こした、というギャップであり、
あくまでWikipedia情報ですが、かのヒトラーもこの映画をいたく気に入っていた(!)ということです。この映画に感化された後にどういう変異を遂げたらああいうことになるのか、、、?!
世界史というか、人間のことは、とかく宇宙のことよりも奇々怪界という月並みなことしか私には言えませんが、
ともかく、そのような大きなテーマに打たれ、戸惑い、考えるきっかけとしても、メトロポリスは、やはり、100年経てなお、あるいは100年経たいまこそ、必視聴のSF映画と思うのです。