梶井基次郎『城のある町にて』読書会 (2021.10.8)
2021.10.8に行った梶井基次郎『城のある町にて』読書会 のもようです。
死は事実であるが、人間の実体は内容と形式からできている
2.024 Substance is what exists independently of what is the case.
実体は何が事実として成立しているかとは独立に存在するものである
2.025 It is form and content.
実体は内容と形式からなる
ウィトゲンシュタイン 『論理哲学論考』 岩波文庫 野矢茂樹訳
死は事実であるが、人間の実体は、内容と形式からできている。妹の死は、事実である。それに対して、まだ妹は実体化する。その実体は、ウィトゲンシュタインの命題化したように、「内容と形式」を持っていた。
(引用はじめ)
一つには、可愛(かわい)い盛りで死なせた妹のことを落ちついて考えてみたいという若者めいた感慨から、峻はまだ五七日を出ない頃の家を出てこの地の姉の家へやって来た。 (『ある午後』)
(引用おわり)
梶井基次郎は、20歳年下の異母妹八重子(3歳)を結核性脳膜炎で亡くした。
この小説は、事実としての妹の死と、実体としての妹の乖離を描いている、と私は思った。
(引用はじめ)
「あああ。勝子のやつめ、かってに注文して強くしてもらっているのじゃないかな」そんなことがふっと思えた。いつか峻(たかし)が抱きすくめてやった時、「もっとぎうっと」と何度も抱きすくめさせた。その時のことが思い出せたのだった。そう思えばそれもいかにも勝子のしそうなことだった。峻は窓を離れて部屋のなかへ這入(はい)った。 (『勝子』)
(引用おわり)
近所の子に意地悪されているのに、意地を張って遊び続ける勝子の心理を推し量った箇所である。この後、夕飯食べながら、トゲが刺さって痛いと勝子は泣きだす。
(引用はじめ)
「ひょっとしてあの時の痩我慢を破裂させているのかもしれない」そんなことを思って聞いていると、その火がつくような泣声が、なにか悲しいもののように峻には思えた。 (『勝子』)
(引用おわり)
なにかのきっかけで、人は、故人を思い出すことがある。それは、似たような場所で、似たような時間帯で、似たような服を着ていた、似たような仕草をした、そういったことがトリガー(きっかけ)となって、故人を思い出すのである。
勝子の、昼間の意地っ張りと、夜のその痩せ我慢の破裂は、死んだ妹を思い出すきっかけになっているのではないか。勝子を観察しながら、勝子の内容と形式において、峻は彼の中に死んだ妹を実体化させようとしているように、私には、思えるのである。
『内容』とは、意地っ張りと痩せ我慢の破裂という子供っぽい感情のありかたことだ。
『形式』とは、その感情のエネルギーに因果関係つけている昼と夜の時間の経過や野原と居間の空間の変化のことだ。
死んだ妹の実体は、死の事実とは別に存在しており、峻は、勝子を思いながら、実体としての死んだ妹を思い出しているのである。二人の女の子は、似たような内容と形式をもつからだ。
(引用はじめ)
雨の脚が強くなって、とゆがごくりごくり喉を鳴らし出した。
気がつくと、白い猫が一匹、よその家の軒下をわたって行った。
信子の着物が物干竿にかかったまま雨の中にあった。筒袖の、平常着ていたゆかたで彼の一番眼に慣れた着物だった。その故か、見ていると不思議なくらい信子の身体つきが髣髴(ほうふつ)とした。
夕立はまた町の方へ行ってしまった。遠くでその音がしている。
(引用おわり)
雨に濡れたままになっている信子の浴衣に、信子の『内容』と『形式』、言い換えれば信子への峻の感情(=内容)と浴衣を着ていた信子の板空間や時間の『形式』を感じている。だから、峻は生々しく信子の体つきがを実体化させている。
信子は、おそらく今朝寮へ帰っていった。彼女は、目の前にはいない。不在である。
しかし、信子が、今ここに不在でも、信子は、峻の中で実体化する。
仮に信子が、今ここですでに死んでいたとしても、実体化する。
それは、妹がが事実として死んでいても、実体化するのと同じことだ。
事実としての死は、死んだ人間の実体とは別次元に位置している。
溺れて気を失ったが、意識が戻ると踊りはじめた勝子の事件、その事件からボケ始めた勝子の曽祖母の話、それが暗示しているのは、事実としての死と、実体化している人間が、あやふやになってしまうと、人は認知能力が低下して、ボケてくるということだ。
妹の死を、事実として受け入れながら、思い出として実体化させて、悲しみを背負って生きていくという厄介なことを、人間はしなければならない。
なぜなら、人間は、人間の中に、『内容』と『形式』によっても実体化する動物だからだ。
死の事実と、人間の実体のズレが人間を人間たらしめている。
(引用はじめ)
それはただそれだけの眺めであった。どこを取り立てて特別心を惹ひくようなところはなかった。それでいて変に心が惹かれた。
なにかある。ほんとうになにかがそこにある。と言ってその気持を口に出せば、もう空ぞらしいものになってしまう。
たとえばそれを故のない淡い憧憬しょうけいと言ったふうの気持、と名づけてみようか。誰かが「そうじゃないか」と尋ねてくれたとすれば彼はその名づけ方に賛成したかもしれない。しかし自分では「まだなにか」という気持がする。
(中略)
夢で不思議な所へ行っていて、ここは来た覚えがあると思っている。――ちょうどそれに似た気持で、えたいの知れない想い出が湧いて来る。
「ああかかる日のかかるひととき」
「ああかかる日のかかるひととき」
いつ用意したとも知れないそんな言葉が、ひらひらとひらめいた。―― (『ある午後』)
(引用おわり)
峻は、妹を実体化させるような内容と形式をさがして、城のある町をさまよっている。勝子や信子を通じて妹の死という事実を回避しようとている。もしかすると、勝子や信子との関係を利用して、失われた未来の妹との思い出までも、実体化させようとしているかもしれない。
旅先の風情の中の「なにかある」些細なきっかけ(そのきっかけは、『内容』と『形式』をもつ)を掴んで、なんとか、「ああかかる日のかかるひととき」の妹を実体化させたい。
峻は、そのきっかけを、切なる思いで、探してまわっているかのようである。
その営みすべてが、妹の死を事実として受け止め切れない自分を慰めるためであり、やがて来る自分の死という事実から目をそらすためなのだ。
(おわり)
読書会の模様です。
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