年の瀬に考える
クリスマスも終わり、今年も残るところあと僅か。すこし1年を振り返ってみたいと思います。
個人的なことでは、体調管理に苦労した1年でした。昨年の春に病気の診断を受け、薬の服用が始まり、薬に慣れるのに1年以上かかりました。
もっとも、病気自体は症状などがあるわけでもなく、薬が面倒というだけだったのですが、体には負担があるようで、今年に入ってなかなか食事がとれず。
6月の診察では、急性ですが血液の数値がとんでもないことになりましたが、食事などを大幅に改善することで、回復することができました。
ちなみに、この新しい食事の習慣は、新たな趣味みたいになって、それなりに楽しんでいるだけでなく、近い将来のやりたいことに繋がりました。
さて、僕の話はここまでにして。
昨年、新型コロナウイルスの緊急事態が解除され、今年はコロナ以前に戻ったと言われますが、僕はそうは思えません。
むしろ、新型コロナウイルスの蔓延が、社会を大きく変えたことを感じた1年でした。
例えば、マルクス・ガブリエルが言うように、世界は、新型コロナウイルス蔓延前に戻ることを望んでいないと考えています。
この間、最初は世界中の人が命の危険を感じ、恐怖に慄きました。その後、いつ終わるのかという不透明な不安を抱えながら、長期化による生活への不安などが重なっていきました。
さらに様々なものの価格が上がり、マスクの価格の暴騰などが起こると、様々なデマなどが流れるようになりました。
ちなみに、、、ですが、僕はお客様や周りの方には、パンデミックの終息は、2023年後半以降と話していました。
これは、感染学などの学術論文などから、例えばオックスフォードからのものを基とした情報です。
このような中で、社会の価値観も大きく変わり、「正しさ」などの意味が問い直されていきます。
例えば、欧米では過去の偉人について、その業績ではなく人間性などが問い直されることとなり、像がたおされるということが起こりました。そしてその像は、元通り修復するのではなく、壊された部分を残し、こうした出来事も歴史に残すというものになりました。
日本でも、今年新紙幣が発行されましたが、渋沢栄一の1万円札が、結婚式の祝儀に不適切なんて話もありましたね。
さらにパンデミック後半には、ウクライナ戦争やパレスチナ問題が激化しました。このときの世界の反応も、これまでとは、少し違うように思います。
人種や民族、信仰から、‘どちら側’というのではなく、戦争行為そのものに対する批判が増えたように感じました。
このように、世界は人の「心」を大切にする流れが進みましたから、世界中の人が、パンデミック以前の世界に戻るのを望まないというのは、やはり正しい見方だと思います。
しかしその一方で、今年は人の「感情」が溢れ、対立した場面が多かったように思います。
僕が特に感じたのは選挙でした。
日本に限らず、世界でも大きな選挙が多い年でしたが、多くの場で、感情のぶつかり合いのような、本質的な議論が蔑ろにされた結果が多かったように思います。
ところで、今年のロジカルシンキングの講義は、これまで以上に難しかったように思います。
アクティブラーニングの導入で、学生さんが議論に慣れているのですが、模範的な結論に辿り着くことに慣れていて、問題意識や真剣さが薄いように感じたからです。
加えて、社説読解では、教材選びに苦労しました。最近はとにかく政治批判の社説が増えましたから、世の中から、「批判しかしていない」と言われても仕方がありません。さらに文章の質の低下も著しく、優秀な学生さんが文章の問題点を指摘することも。
殘念ながら、新聞はもう、教材としての力も失いつつあります。
ここまで色々なことを述べてましたが、僕が今年感じたのは、やはり「感情」が溢れ過ぎているということでした。
以前も記しましたが、「世論」は、当用漢字が用いられる前は、「輿論(よろん):パブリック・オピニオン」と「世論(せろん):ポピュラー・センチメント」に分けられていました。
SNSの登場、さらには「感情」が溢れたことで、「世論」が「輿論」を押しのけて、あたかも正しさの根拠のようになったことも加えておきたいと思います。
社会の変革期には哲学が活躍しますが、数年前から、先進企業では哲学者を採用し、CPO(最高哲学責任者)という役職まで置かれるようになりました。
感情が溢れ、ぶつかりあっているからこそ、次の時代の考える力が求められている、そんなふうに感じた1年でした。