夢見ることの意味
私は、幼稚園の年中の時にサッカーと出会い、学生時代のほぼ全てをサッカーに費やしてきた。小さな頃から夢見ていたのは、プロサッカー選手。大きな野望と、根拠のない自信を胸にエネルギーいっぱいにサッカーと向き合ってきた。その夢を追いかけていた日々は充実感に溢れ、活力に満ちたものだった。
しかし、その夢は叶わず、今では大学4年生となった私は就職活動を皆と足並みを揃えて行ってきた。将来に対する強い野望や、こうなりたいという目標もこれといってなく、ここ最近は過ごしている。
残り3ヶ月と迫ってきた学生最後のサッカー生活は、楽しいことばかりだけでもなく、苦しいことの方が割合としてははるかに多い。しかし、その苦しさも全てひっくるめて、学生時代の部活動には価値があると思う部分もある。
学生時代の多くの日々で、私はプロという目標をひたすらに追いかけ、当たり前の目指すべきところとしていた。そしてその道を進むこと自体が私の原動力であり、自らを鼓舞できる理由でもあった。
そして強烈な夢を失った自分は、これからの長い人生の岐路に立ち、いくつもある道の前で途方に暮れている。
これからどこに進みたいか、強烈な夢や目標が転がっている道はどこかにあるか。そもそもその強烈な夢は、自らが選んだ道でもがいたその先に生まれてくるもので、今はどこにもないのか。
今思えば、なぜサッカーにあれほど夢中になっていたのか。特別な理由はないが、ただ楽しく、周囲がその自分を認めてくれていたから。これに尽きるのかと思う。サッカーを始めたきっかけは、記憶するところでは、友達の影響だし、たまたま最初に選んだサッカーというものが合っていただけという可能性もある。
夢を持っていたからこそ、そして今となっては一つに決まる夢がないからこそ、夢が持つパワーを私は感じる。
夢の存在が自分を奮い立たせ、自らを動かす。夢中になって日々を生きることができる。夢は諦めなければいつか叶う可能性がある。夢を追う過程の尊さを日々実感できる。
「私らしいはたらき方」とは何か。
それは、夢を抱き、今日という日々に夢中になり、将来に対する野望を仲間と語りながら、自らを一歩一歩高めていくこと。
21歳の自分は今こう思う。
だから、夢を持って生きたい。
自分を認めて、ただただ夢を追いかける日々を生きること。
その価値に、学生ラストイヤーに気づけた。