大阪のおばちゃん。
私が大阪に住んでいた時代に、当時、東京に住んでいた妹の家族を訪ねたときのこと。
どういうシチュエーションだったか忘れたが、多分まだ5歳くらいだった姪っ子が、私のことを、
「大阪のおばちゃん」
と呼んだ。
…………。
私は、その場で、フリーズした。
そして、周りの空気も、固まった。まるで、静止画のようだった。
姪っ子も、子ども心に、何かヤバイ発言をしたと気づいたのか、その場で沈黙して、神妙な表情になった。
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大阪のおばちゃん、と聞いて、皆さんは何を連想するだろうか。
●パンチパーマ。
●ヒョウ柄の服。
●誰にでもアメちゃんを配る。
そのとおり。まさしく、こういう(↓)イメージだ。
こちらの記事の写真の大阪のおばちゃんたちは、その特徴があまりに強調されすぎていると思うが、こういう雰囲気の、いわゆる「大阪のおばちゃん」は、確かに、たくさんいる。何度も、出会ったことがある。
もうお分かりかもしれないが、私が言いたいのは、こういうことである。
「大阪のおばちゃん」という言葉は、「大阪」+「おばちゃん」という2つの名詞の単なる足し算ではなく、つまり、「大阪に住む妙齢のご婦人」という意味ではなく、
「大阪に住み、大阪弁、大阪のノリで話し、底抜けに明るくて、世話焼きで、おもろい、独特のファッションをしている、おばちゃん」
という意味となり、もはや、それ自体、別の意味を持つ普通名詞となっていると思うのだ。
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子どものいない私にとって、姪っ子は、とても可愛い存在だ。溺愛していると言っていい。
しかし、この姪っ子が、私のことを「大阪のおばちゃん」と呼んだ、その時ばかりは、一瞬にして、何とも憎たらしい存在となった。おのれ、どついたろか!と思った。
誤解しないでいただきたい。私は、大阪の文化を愛しているし、大阪のおばちゃんを愛している。特定の地域のみに生息する天然記念物並みに貴重で、是非とも、大切に守っていかなければならない存在だ。
しかし、私は、もともと関西の出身ではない。大阪には、大人になってから初めて住んだ。最初は、大阪弁が怖くてたまらなかった。性格的には、世話焼きなほうではあると思うが、大阪人のノリ(素早く絶妙な、ボケやツッコミ)は、全く習得できていない。
大阪人のノリは、大変高度な技である。それは、大阪人が、生まれたときから、家庭、学校、地域社会で、24時間365日、英才教育を受けてこそ、ようやくマスターできるものであり、後天的にマスターするのは困難だ。英語習得よりも難しいかもしれない。ゆえに、私ごときのヘタな大阪弁では、「大阪のおばちゃん」の要件は満たさない。本物に失礼である。
さらに、あのようなファッションは、失礼ながら、ちょっと私の趣味ではない(ただし、アメちゃんを常時持ち歩いていることは、正直に告白しておく。)。
ということで、「大阪のおばちゃん」と呼ばれると、私のアイデンティティと相容れないラベリングをされてしまったように感じて、嫌だった、というわけだ。
と、ここまで書いていて、思った。では、東京に住んでいる現在、姪っ子に「東京のおばちゃん」と呼ばれることは、嫌ではないのだろうか。
いやいやいや、もちろん嫌だ。「大阪のおばちゃん」と呼ばれるときほどのインパクトはないが、「東京のおばちゃん」でも、やっぱりムカつくのである。
つまり、「大阪のおばちゃん」と呼ばれることも嫌だが、単に「おばちゃん」と呼ばれることも、気に食わないのだ。確かに、妹の娘である姪っ子から見たら、私は「伯母」「おば」(”aunt”)に他ならない。しかし、「おばちゃん」という言葉が持つ、老いた女性というイメージが、嫌なのである。
そういえば、どこから見ても典型的な「大阪のおばちゃん」も、他人からは、「おねえさん」と呼ばれないと、振り向かない傾向があるように思う。そして、それをよく分かっている大阪のおっちゃんらや、おにいちゃんらも、大阪のおばちゃんに対しては、ちょっと甘えたような、絶妙なトーンで、「おねえさーん」と声をかけるのである。そうすると、「はーい♡」という、大阪のおばちゃんの満面の笑顔を見ることができるだろう。
もし、大阪のおばちゃんが、自分自身のことを、「ウチは大阪のおばちゃんやからな~(笑)」などと、冗談のように言っていたとしても、彼女に声をかけるときは、決して「おばちゃん」と呼んではいけないのである。
上記の事件以後、姪っ子は、私の徹底した指導の甲斐あってか(そしておそらく、妹による厳格な躾の甲斐あってか)、私のことを、「大阪のおばちゃん」、または、「おばちゃん」と呼ぶことは、殆どなくなった。
唯一、私を怒らせたいときや、挑発したい時だけ、わざと「おばちゃん」と呼ぶのだが……(苦笑)。