MOROHAっぽい夜を求めて、今夜も曳舟を彷徨う【エッセイ】
───ぼくの精神は、いまコメント機能にだいぶ助けられている。
※よみづらいと思います。
でも、これは
おれの魂の叫びなんだ!!!!
30歳にもなって、碌なもんにもなれず、ロクデナシ。
どたばた遅れただけの人生だった。
そんな男がつい先日、31歳になった。
なんにもなってなかった。
挙げ句の果てに、この体たらく。
こんな奴、死ねばいいのにとじぶんに言い聞かせた。
だから、ちょいとじぶんを殺してみた。だが、これが失敗した。
死ねなかった。
するとさて、長い余生の幕開けだ。
死んで生まれ変わったら、人生再スタートしただけだ。どれどれ、次の人生は……え?31歳のおっさん?さえねぇ。
生き返った世界で、転生したら、ぼくにはほんのちょっとの<文章力>のスキルだけあることがわかった。
これだけは、なんかまわりから褒められた。信じられなかったが、ぼくはそこそこ文章が上手らしいかった。でも、ぼくは、自分が最低の人間だと自己評価していたからそんなふうには思えなかった。環境的に、いわゆる毒親(本当は毒でもないのだけど)に育てられたぼくは、そういう思い込みを自らに強いていて、長い間それに苦しめられた。だから、ぼくになにか欠片の才能があるなんて夢にも思っていなかった。それは、遠い過去にとっくに否定したものだったから。
それ以来、ぼくにはなんの才能もないクズ野郎だと自らに言い聞かせた。クズだったらクズなりにクズっぽいことをしなきゃいけないと、グレたりやつれたり、じぶんが傷ついたりした。ぼくの世界の中でぼくの配役は悪役で、その役は淘汰されるべき害悪だと見做して、自罰的な行いを繰り返し続けた。こころは蝕まれた。この時間は長く苦痛なものだった。茨の痛みをともなう人生だった。
そこからやっと抜け出せたのは、親友と呼べる男のコトバだった。
コトバはすごい。ひとを変えられるんだ。ほんとうに変わった。
そのカレはぼくに、「才能あるよ」と言ってくれたのだ。
嬉しかったから、めちゃくちゃ頑張った。
ひたすら書いた。ひたすら人と話した。
そしたら、すこぉし結果出た。
noteで「有名ですね」とか言われるようにはなった。
でも、まだまだこんなんじゃ夢とは程遠い。
岸田奈美さんは、これ(note)だけで数千万円稼いでるんだし、ぼくはまったくすごくない。まだまだ、まだまだもっともっと頑張らなければならないのだ。
ぼくは、noteで一番にならなければならない。
(noteで一番っていうのが、表現としてよくわからないけれど、それは売上を指してるのか、社会的知名度を指しているのか、芸術的な価値のことを指しているのか、でも、その全部なんじゃないかと思うわけである。)
なんかわからないけど、一番なのだ。一番以外はだめなのだ。
そこまでは、頑張り続けなければならない。アスペルガーというのは、そういうもんらしい。だから、これはぼくの変えられない性質のようなものである。
だからこそ、こんなんじゃだめなのだ。
ゼッタイに負けられない。
自らを奮い立たせる。
今は目の前の敵を睨みつける。
その親友とは、おれがナルトだったらサスケに当たるような、
悟空に対するベジータ、お茶子に対する比嘉ちゃんのような、
そんな非対称な存在なのだ。
そのかれが、「がんばれカカロット」してくれたのだ。
だったらそれに応えないわけにはいかない。そう思ってがんばり続けた。
じぶんなりのがんばり方だった。
でも、結果にはつながらなかった。
持ち合わせた熱量と過剰な理想が、現実と釣り合わなかったのだ。
やっぱりダメ人間。
死んで詫びろとたまに声が響く。
それは、おれの声。おれがおれに向けて放つ声。
おれはじぶんが大嫌い。
言ったことひとつも実現できないおれなんか大嫌い。
そんなじぶんが大嫌いにならなくて済む時間がある。
文章を書いてる時間だ。優しい気持ちになれる。
noteでは、大嫌いなじぶんからひねって絞り出して生成される極々微量な優しさの成分を抽出したものをコトバにしている。
できるかぎりだれかのために書くようにしている。
だれかが読むことを前提として、その読んだだれかが明日も少しはがんばろう、そう思える読みものを目指して書いている。
仕事終わりの疲れたあたまでも読めるように、さらさら読める言葉を選び、端々にちょっと面白い情報なんかもお届けする。それでいながら、読み終える頃にはほっこりできる読了感を目指して書いている。
ぜんぶのエッセイがそういう風に、じぶんなりに工夫して書いている。
だから、コトバに血が通う。
血が通ったコトバをあなたに届ける。
おれがうっかり死んじゃわないように、生きているんだと叫んでいる。
でも、たまにじぶんの「大嫌い」に押しつぶされそうになる。たまにというか、冬になれば、それがほぼ毎日になる。
だから、呼応してほしい。
あなたが、ぼくの魂の叫びをキャッチしたのなら、コメントをしてほしい。
「へぇ」で終わらせないでほしい。
「へぇ」っていってどこかへいかないでほしい。
ちゃんと読んだという印がほしい。
それがコメントだ。
冒頭で触れたコメント機能に助けられているというのは、ここにつながる。
ぼくが、考えたことを書く。
それを読んだあなたがコメントを書く。
そのコメントは、新たな読者を呼ぶきっかけになる。
ぼくの文章を読んでくれた人がこんな感想を残してくれましたというのは、説得力があるからだ。
こんなふうに。
ここにコミュニケーションが生まれる。
だから、コメントする人は、ぼくの作品つくりのパートナーなのだ。
パートナーが見てくれている。
読んでくれている。感想をくれる。
だから頑張れる。
さらに、その感想がさらなる読者を呼び込む。
さらに頑張れる。
こんな循環をつくり出すために、コメントは必要なのである。
ぼくは、noteだけで生活できるようになりたい。
何度も言っていることだけど。
そのためには、今のまんまじゃ絶対だめだ。
だから、みなさんぼくをもっと有名にするのを手伝ってください。
スキ待ってます。フォローももちろん。
コメントも。
もし、この文章に少しでもなにかこころが動かされたのなら、山門文治をシェアしてください。
そして、今後ぼくがどうなるのか見守っててください。
よろしくお願いします。